短編

□悔しさの先に
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 視界の端にある太陽は光のとげと絡みつく熱を放っている。

 その眩しすぎる星をひまわりのように直視することはできない。

 光から逃げるように視線を逸らせばセメントを溶かしたような灰色の雲。

 鼓膜を震わすのは気だるそうに鳴く蝉の声。

 今日は暑い上に湿度が高い。

 空気全体で僕の体を熱くさせた。

 何一つとして気分を晴らすものはない。

 とはいっても、このうんざりする程によどんだ天気が僕を不機嫌にさせたわけではない。

 これらはただふさぎ込んだ僕に追い討ちをかけたに過ぎない。

 ふと足を止める。

 目に入りこむ光を手で遮っていたがその必要はなくなった。

 気づけば目の前にあった大きな建物が僕の手に代わって光を遮っている。

 当然ながら日陰は日なたより涼しい。

 僅かな気温の低下は僕の機嫌を少しだけ軽くしたが、それ以上の重みが僕に乗る。

 いつもならここから十歩程歩いたところにある玄関から中へ入るのだが、足が拒んで動かない。

 もしこれから、例えば来た道を引き返すとすれば足は軽やかに動くだろう。


「もう知れ渡っているだろうな、昨日のこと」


 一つ、ため息。

 耳を震わすのは蝉の声ではない。

 硬く軽いもの同士をぶつけた音。パンッパンッと建物の中で響いている。

 音を発するものは一つではない。

 同じ音を各々が自由に鳴らすため、ある意味蝉の様だ。

 僕はこの音が好き。

 幼い頃から人の声以上に聞いてきた音。

 何の混じりけもなく純粋なこの音を聞くのも鳴らすのも僕の快感であった。

 ……昨日までは好きだった。

 もう一度、ため息。

 僕はもやもやした気持ちのまま足を動かした。

 ずっとここで立っていても仕方がない、とりあえず入ろう。

 その建物――西柳高校剣道場――の玄関の扉を押すと、慣れたとはいえお世辞にも良い匂いとは言えない臭いが僕に襲い掛かるのであった。

 道場に足を踏み入れた瞬間、景色が停止した。

 竹刀を構えた生徒たちが各々の動作を止め、こちらを見ている。

 後輩である彼らが目上の存在であるはずの僕を見て黙る。

 驚きのような悲しみのような視線、その中には僅かにそしてはっきりと軽蔑が含まれている。

 わかっている。

 この景色の停止ボタンを押したのは僕だ。

 再生ボタンを押したのはどこかで咳払いをした誰か。

 我に返った彼らは各々練習を再開した。

 ただ止まっていたのは彼らだけではないらしい。


「正喜、おはよう」


 名を呼ばれ、僕自身も我に返った。

 壁の死角になって見えなかったが、そこには一人の男が立っていた。

 僕がここで一番信頼している一人の男が。


「おはよう直樹」


 明るく笑う直樹の顔は先ほどのひまわりを連想させる。

 彼は僕の親友であり、西柳高校剣道部の副将を務めている。

 大将である僕をサポートしてくれるかけがえのない存在だ。

 それはクラブでも、日常生活でも。

 今日も彼が声をかけてきたおかげで少し気分が楽になったようだ。

 彼はその場の空気や相手の気分を良くするような、決して真似できない技を持っているように思えた。


「おい、お前ら大将に挨拶しろ」


 彼が声を出せば先ほどあんな目で僕を見ていた彼らさえ頭を下げる。

 本当はこちらが言うまで挨拶しないならば正座で一時間説教してもよいぐらいだが、そんな気分ではない。

 それに彼らの気持ちはわかる、本当は僕に挨拶なんてしたくないのだろう。

 僕は近くにいる人くらいにしか聞こえないような声で返事をすると、彼らに背を向け準備を始めた。

 用意する間直樹と話をした。

 なんてことはない普通の話。

 直樹はいつもと何も変わらない、僕はいつもと似てもつかない。

 直樹は自然に僕と接しているが、知っている。

 内心はいろんな感情が渦巻いて吐き出したくて仕方がないのだ。

 むしろ何も思わないわけがない。

 それでもいつもと変わらないのは僕を気遣ってのことだろう、申し訳ない。

 早く僕もいつものように振舞わなければ。

 僕は竹刀を握って相変わらず蝉のような団体の中へ紛れ込んでいった。



 苛立ちが止まらない。

 原因は全て僕であるから、余計に。

 今日の練習は最悪だ。

 竹刀を持つ手に力が入りすぎてうまく竹刀を振れない。

 力を抜くことに意識すれば逆に抜きすぎてしまい、竹刀に体を持っていかれる。

 竹刀の先がぶれる、体が僅かに揺れる、集中はすぐに切れるのに疲労感は途絶えない。

 僕は大将だ。

 まだ竹刀に慣れず竹刀に振り回される後輩を指導しなければならない。

 僕自身はもちろん、後輩の様子もよく見ないといけない。

 それがどうだ、後輩どころか僕自身を制御できていない。

 直樹に度々声をかけられて冷静になるが、その冷静さも束の間、風が吹き去るよりも先に消えてしまった。

 今は練習を終え顧問の先生の話を聞いている。

 といっても僕はほとんどそこに立っているだけで言葉は何も聞こえない、聞く気がない。

 精神が乱れているのだ、今日はすぐにここを出よう。

 ランニングして落ち着いてから布団に潜ろう。

 そんなことを考えていたのだが、それでも無意識に話を聞き僕にとって必要な情報かどうかを区別しているのだなと実感することになる。


「今日から大将と副将を交代する」


 誰もが自身の耳を疑っただろう。

 一番驚いたのは副将の直樹だろうか、目を見開いている。

 一番冷静なのは大将の僕かもしれない。

 先生に「いいか」と聞かれ僕はいたって普通に返事をした。

 直樹がこちらを見た気がする。

 いつも誰よりもはっきりと返事をする直樹だが、今回の返事はやけに弱々しい。

 これから大将になる男がそれではどうする。

 大将の座を失った僕は内心笑っていた。

 悲しみを紛らわすためなのか、本心から笑っているのか。

 それは僕にもわからなかった。



 僕と直樹は片づけを済ませて外へ出た。

 夕方とはいえ暑い。

 来たときとは違う蝉の声。

 涼しい風が吹きつけるのが心地よかった。

 まだ茜色には染まらない西の空。

 すずめの団体がどこかへ飛んでいく。

 団体の先頭を飛ぶ鳥は直樹のようにみんなから慕われているのだろう。

 僕はただ黙ってそれらを見届けた。


「直樹のほうが大将に向いていると思っていたよ。みんなをまとめるのだって上手いからね」


 靴をはく直樹に僕は言った。

 笑って言ったつもりだが、いつもの直樹のように正真正銘の笑顔にはなれず、それがばれるのが嫌で直樹に顔を見せられなかった。


「はは、そうかな」


 直樹も僕を見なかった。

 僕はこの後のランニングのことを考えながら、直樹もきっと何かを考えながらゆっくりと足を動かした。

 しかし、二、三歩動かしたときだった。

 僕が背を向けた玄関から二人の生徒が出てきて、ぎりぎり僕に聞こえるような声で言ったのだ。


「あんな奴の弟だから大将から降ろされるんだよ」


 僕はとっさに振り返った。

 そこにいた二人は僕を見るなり逃げる体制になる。

 何かを言おうと口を開くが口内が乾いて声にならない。


「待て、お前ら!」


 声が出ない僕とは違い飛び上がるほどに大声で怒鳴る直樹。

 直樹は「先に帰ってくれ」と僕に言うなり駆け出した。

 はやかった。

 直樹の走りも、三人の姿が消え僕が一人になるまでの時間も。

 一人残された僕は何をすることもなく立ち尽くしていた。


 ――あんな奴の弟だから――


 その言葉が何よりも重くのしかかる。

 今日一日苛立ちながら過ごしたが、それでもできる限り冷静を装ったつもりだ。

 しかし今はどうだ、足が震える、手が震える。

 速度を上げる心臓の音が耳にまで届く。

 僕は他人の一言でこんなに動揺するのか。

 しばらくしてから体の震えは止まったが、足元で汗が円を描いていた。

 人間、動揺するだけでこんなにも汗をかくのだなと実感する。

 先に帰れと言われたのだ、そろそろ帰らなければ。

 今頃直樹が僕の代わりに説教しているだろう。

 ……いや、直樹が大将となった今では当然なのか。

 大将から降ろされた、それはやはり悲しい、悔しい。


「僕が兄さんの弟だから、か」


 確かにそうだ、あの男の弟を大将にしておこうと誰が思うものか。

 ああ、そうだ。

 わかっているんだ。

 しかし心にできた灰色の雲は消えない。

 もやもやとしたままその体積を増していく。


「僕が兄さんの――」


 絞り出すように声を出して、僕は再び足を動かした。

 しかし、また二、三歩動かしたときだ。

 後方から頭をたたかれた。

 頭に痛みが走るのと同時に響く聞きなれた音。

 少し遅れて耳に届いたのは僕の口から漏れた痛みに耐える声。

 先ほどの奴らではないのか、竹刀で人の頭をたたくとは。

 こればかりはさすがに怒らずにはいられず勢いよく振り向いた、が。


「一つだけ言っておく」


 そこにいたのは文字通りの巨漢。

 影でゴリラと呼ばれている剣道部の顧問であった。

 ゴリラが俺を見下ろしている。

 右手は竹刀を握っていて、このゴリラが僕をたたいたことは明らかなのだが。


「俺はお前自身を見ている。お前の兄がどこの坊主だろうが関係ない。これはおまえ自身の問題だ、わかるな」


 そう言って今度は肩をたたかれた。

 ゴリラの表情の変化を見ていたからそう感じたのだろうか、肩に残るのは痛みではなく人間の温かみであった。

 素直に頭を下げて、僕はその場を後にした。


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