短編

□悩みの意義
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 鳴り響くチャイムが、放課後の始まりを告げた。

 授業から開放された生徒は、その顔にご機嫌な笑みを浮かべて教室から出て行く。

 直に私は一人ぼっちとなる。

 教室の真ん中、私は塾の時間になるまでの時間潰しの為に教室に残っていた。

 目の前に広がるノートには奇怪な化学式が描かれている。

 右手のシャープペンシルは静止の状態でそこにあり、少し手で弄んでやれば体全体で円を描く。

 無意識に私の視線は化学式から円へと注がれる。少し開いた口から大きなため息が漏れた。


「何です、暗い顔をして」


 不意をつくその声に驚くあまり、シャープペンシルを手から落としてしまった。

 声の主、先生は後ろの方にいたらしい。振り向いてその存在を確認すると、先生は大学のポスターを壁に貼付けていた。

 私の表情を見たような口ぶりであったが、実際は壁を向いている。

 そんなところに私の顔があるはずがない。


「見てもいないのに暗い顔と言うのですか」

「私が知るかぎり、貴女はため息をつきながら愉快な表情をするほど奇妙な人物ではないでしょう」


 もっともな考えに、そうですかと愛想のない返事をして再びノートを眺めた。

 先ほど漏れたばかりだというのに、もう一度ため息が漏れる。


「元気な貴女らしくない。何か悩みでもあるのですか」

「別に。放っておいてくれませんか」

「放っておくとは私の性分に合いませんよ。数学教員というのはね、どいつもしつこいです。何でもとことん食いつくのです。数式を解かずしてはいられないのと同じでね」


 私がもともと数学を好んでいないからなのか、先生の考えが特異なだけなのか、それは理解できなかった。

 先生は変わらぬ調子でポスターを貼付けている。

 確かに悩みはある。

 しかもそれは私の勉強意欲を奪い、なお私の中に居座る厄介なもので。

 すぐにでも口から吐き出してやりたいが、目の前の先生へと吐き出す気にはなれなかった。


「私は言いたくないです」


 はっきりと言った。

 私と先生の間の、大きな見えない壁を示したのである。

 大きく、わざとらしい先生のため息が聞こえたが、私は気にならないふりをする。


「ならば、かまいませんよ。代わりに私の悩みを聞いてはくれませんか」


 それは突然。

 どう返事をしてくるかと思えば、妙なことを言うのだ。

 私は振り返りそうになったのをぐっと我慢し、そのまま思うことを口にした。


「いいですけど、変なことを言うんですね。先生が生徒に悩み相談だなんて」


 くす、と笑い声が聞こえた。

 はじめは自虐の笑いだと思ったが、間もなく、実は私を嘲笑う声だと気付くことになる。


「どうしてです、人が人に相談するのはごく自然なことでしょう。ただ相談相手が年下の生徒であった、それだけですよ」


 反論の意は起こらなかった。

 いや、起きたところで反論の余地はないのだが。

 私は気付いていなかったのだ。

 私と先生の間に壁がある限り、私は私の、先生は先生の世界に閉じこもるのだと思っていた。

 しかし実際、私は自ら先生の世界に足を踏み入れつつあった。

 私はそれに気付かない。


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