短編
□悩みの意義
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もはや私にはシャープペンシルを動かす気はなく、背後の声を無意識に期待していたのだ。
そう、期待しすぎていたのだ。
「最近、妻が私にかまってくれないのですよ」
私は馬鹿だった。
何を期待していたのか、と問われれば私自身わからないので答えようがないが、それでも期待を裏切られた心地が胸に残ったのだ。
「……くだらない」
「そんな、何がくだらないと言うのですか!」
「その悩みですよ、幼稚な!」
「真剣な悩みに幼稚も大人びるもないでしょう!」
埒が明かないという言葉の意味を痛感した気がする。
気付けば私は振り返っていた。
私の瞳は、先生の全てを見透かしたような瞳に捕らえられた。
「では、貴女はよほど意味のある悩みを抱いているのですか、言ってみてくださいよ」
先程までの躊躇は消えていた。
それがすなわち、私と先生の間の壁の崩壊を意味するということを、冷静さを失った私が気付くわけがない。
「私は理系として勉強しているけど、このまま理系でやっていけるのか、文系にうつるべきか、不安なんですよ!」
強く言い切ったというのに、先生が反論するまで一寸の間もなかった。
「ほら、くだらない」
私が長い間溜めていた悩みの塊は、気付けば先生の手によってばっさりと切り落とされていた。
かえって清々しさを覚える程に。
私は唖然とした。
「くだらなくなんかないですよ! 先生の悩みに比べたら私の方が……」
「いえ、くだらないです。そしてありきたりな悩みです。誰だって一度はね、ふとそんなことを考えるものですよ」
興奮のあまり、私の体は熱くなっていた。一度我に返った私は、「くだらなくなんか……」と呟きながら元の方向へ向き直った。
忘れられた化学のノートは、気付かないうちに風が読んだらしく、少しめくられていた。
何をする意欲もわかない。
悩みに対する良い答えが得られることもなく、ただ無駄に時間を消費しただけだ。
私はため息をついた。
いや、つこうとしたのだが、遮られたのだ。
「よく聞きなさい」
それは、優しい声であった。
心地よい風や小鳥のさえずりと声が調和し、和やかな雰囲気が教室を包む。
「悩みに意味の有無なんてありません。悩みの大きさなんて人それぞれで、大小関係で表すのはくだらないことです」
再び振り返った。
貼られていないポスターは机の上で自分の順番を待っている。
しかし先生はポスターに目もやらず、呆然としている私を見ている。
先生は私しか見ていなかったのだ。
「どうして悩みの大きさに単位がないが、知っていますか。そんなもの必要ないからですよ。学者はね、無意味な計算なんてしないものですからね。どんな悩みでも真剣に悩みなさい。それが貴女のこれからにつながりますから。誰のどんな悩みでも、例え貴女がくだらないと感じるものでも一緒に真剣に悩みなさい。相手だけではなく、貴女のためにでもなるのですよ」
結局、先生は私の悩みに具体的な意見を述べることなく去ってしまった。
ただ悩むことについて語っただけである。
しかし先生は不思議な人だ。あんな妙なやり取りで私の心に深く言葉を刻み付けてゆく。
話をする前と後ではこんなにも気分が変わってしまった。
悩みが自己を成長させる。
そう考えてみると、じっくり悩んでみるのも悪くない。
これから先、色々な出来事を経験し、壁にぶつかり、悩み苦しむ日が来るかもしれない。
それでも悩んで、悩みぬいて何か答えを得られるのならば、何より嬉しいことではないか。
そして、相手の悩みに真剣に向き合うこともまた――。
清々しい気分でシャープペンシルをくるくる回し、くだらないことを考えていた。
「さて、先生の奥さんの機嫌を取る方法、か……」
今の私は、きっと滑稽である。
悩みの意義 完 著:白鷺美鈴