本棚2
□月に沈む
1ページ/1ページ
(南国以前)
艦の外に出ると、東南アジア特有の高い湿度を孕んだぬるい海風がまとわりついた。
太陽はとっくに沈んだと言うのに、気温は全く下がる気配も無い。
「ハーレム隊長」
目的の人物は、デッキの柵にもたれ掛かってウトウトとしていた。
腕に抱えた空の酒瓶に呆れながら、そばに膝をついて肩を軽く揺すってやる。
ぼんやりと目を開けはしたが、まだ完全な覚醒には程遠いようで。
――珍しいこともある…。
内心、そう思っていた。
こうして外で酔い潰れている事はたまにあれども、肩を揺すっても直ぐに目覚めなかったのは初めてではないだろうか。
常ならば文句の一つや二つ、飛んでくるのが当たり前なのだが。
「こんな所で寝ていたら身体に障ります。寝るなら自室で…、」
そこで思わず言葉を切って、息を飲む。
ぼんやりとしたままゆっくり視線を空に向けたかと思うと、その口元を奇妙な笑みに歪めたからだ。
――嗤う、とはこのような表情を言うのだろうか。
なまじ整った顔をしているだけに、恐ろしいほど綺麗で歪んだ笑顔だった。
「隊、長…?」
肩から手を離し、戸惑いながらも声を掛けてはみたが反応は無い。
一体、空に何があるというのだろう。
ハーレムが見ているのと同じ方向に顔を向けてみるが、そこにはただ満月が煌々と輝いているだけである。
まさか、月に狂わされたとでもいうのか。
馬鹿馬鹿しい。
そう思うものの、中々打ち消すには至らなかった。
「…マーカー?」
突然、思いの外にはっきりとした声で呼ばれて慌てて振り返ると、ハーレムがきょとんとした顔でこちらを向いていた。
「何やってんだ」
「…それはこちらの台詞です」
「なんだそりゃ。もしかして俺、寝惚けてた…か?」
「ええ。珍しい姿を見せて頂きました」
――寝惚け。そうであって欲しい。
拍子抜けするほど普段通りの顔を見せたことにホッとしながら、少し癖が付いていたハーレムの髪を整えてやる。
それが心地良いのか猫の子のように摺り寄ってくるのをやんわりと制止して、立ち上がった。
「…ヤらねェの?」
「戯れなら後で幾らでも。出立のお時間です、任務を忘れたわけでは無いでしょう」
「あー、そう…だったなァ」
柵を支えに立ち上がるハーレムの動作は酷く緩慢で、思わず腕を差し伸べる。
ゴトリと転がり落ちた酒瓶と、真っ直ぐ立つことすら儘ならぬハーレムとを見比べ、小さく溜め息をついた。
フラつき方からみて、空けた酒はこれだけでは無いらしい。
「一体ここに来るまでにどれだけ飲んだんですか、貴方は」
「んー…いっぱい?」
「…愚問でした。ほら、しゃんとお立ちなさい、子供じゃあるまいに」
「あ、すげー」
相変わらず人の話を聞かないな、この人は。
「見ろよ、マーカー」
ハーレムが指したのは海面に映る、月。
直接見るよりも柔らかい光を放ってはいるが、ゆらゆら揺れる様は妖しげでさえある。
「呼んでる、みたいじゃねェ?」
「そんなものは、ただのまやかしです」
先程のハーレムの様子を思い出し、些か語尾が強くなった。
「そうか?」
「そう、です」
――…ああ、まただ。
何て顔で、嗤うんだろうか。
そも嗤っている自覚はあるのだろうか。
――この人は、きっと酷く脆い。
「マーカー?」
嗤いに歪む顔を無理矢理こちらに向かせて、強引に唇を重ねた。
「ん…っ、ン…ぅ」
ハーレムの瞳は驚きに一瞬見開かれたが、声には直ぐに艶が混じり出す。
差し込まれた舌を絡め取り、息を継がせる暇も与えずに深く、深く口付けて。
「はぁ…っ、あ…、ッ」
ゆっくりと唇を離してやるとその口元が何か言いたげに薄く開き、震えてまた閉じられた。
言葉を押し止めたのではなく、何を言っていいか分からない――そんな風に。
「…いいんですよ隊長。何も、言わなくていい。それを口にしてしまったら、貴方は」
崩壊する。
何故かそう思えた。
本来、ハーレムは人を殺すには向いていないのだ。
好戦的な性格をしてはいるが、決して殺すことに喜びを見出だしてはいない。
さりとて非情にもなりきれず、高いプライドで脆さを守り押し固めてやっと、辛うじて生きているのだ。
その、守りを。
自ら解いたのかそれとも、今宵の月の妖しさが欠けさせてしまったのか。
もう嗤ってはいないハーレムを腕に引き寄せると、ほう、と溜め息を漏らして身体を預けてきた。
どうする事も出来ない現実を今だけは考えなくて済むようにと、ただ願って。
そう、明日が来る前に。
月と共に沈めてしまえばいい…――。
月に沈む
そうすれば、明日には笑ってくれますか?