靴ひもが結べなかったこと

□靴ひもが結べなかったこと
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 C.G.ユングは、人間の夢にとって「右」は利き手であるので理性の象徴、「左」は理性ならざるものの象徴と読み解いた。…と記憶するが、さて彼の著作は実家の本棚なのでいま参照できぬ。

 2010年6月19日、大学にて左手の力のコントロールに失敗する感覚あり。次第に微妙な震え。ただし左手のみ!五本の指が独立してわしゃわしゃと動く。
 
 下宿まであと100メートルというところで、左の靴ひもがほどけた。しゃがんで結ぼうとする。左手の指が紐を掴んでくれない。力を抜くと不随意運動は止まるが、少しでも自分の意識で動かそうとするとやはり大いに動きが乱れる。おもしろい現象。
 「私は左手に命ずる、おまえは右手と協調して靴ひもを結ぶように。」なーんとなくカッコイイ命令形であるが、私の「理性でないもの」「意識が届かないもの」は俄然抵抗した。左手の指は動いた、動いた、動いた。「左手にとって」まったく自由に動いた。私にとっては、どうだったろうか? 洗者ヨハネは「私はこの人の靴ひもを解くにもあたらない」と言ったけれど、それを結べぬ人間の靴ひもを、さて誰が解いてくれるだろうか?

 いちど視界を靴ひもから外し、靴ひもを見ていないフリをして結ぼうとする。私はあきらかに、「理性ならざるもの」に対して休戦を呼びかけていた。靴ひもを結ぶなら、無意識に結ばねばならない。私は何も意識していない、意識という単語をも意識していない、意識していないことを意識している自分も意識していない、意識される意識と意識する意識はもはや私の文法枠組みではない……結べた!

 マンションへ戻る。郵便受けに、一昨日出したNへの手紙が切手料金不足で突っ返されていた。私は封筒を鞄へ突っ込んだ。左手の内乱は進撃を再開した。Nはこの手紙を受け取っていない……。届かない手紙というものは悲劇すら設計しないのである、『失われた時を求めて』のアルベルチーヌの時差手紙を読者諸賢は思い出せ。私は部屋の鍵を挿そうとするが、左手は鍵を自在に弄んだ。ああ、鍵ぐらいは右手で開ければ良い……。帰宅。おおげさである。左手は「他人の手」のように感ぜられる、Nは手紙を受け取っていない、ボールペンは無くしてしまった。

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