揚羽蝶

□揚羽蝶2・女に惑わず、月に惑う
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「こんばんは。」

「よお、久し振りだな。」


体調不良と思われるような状態で一時的に人事不省に陥ったために終業時間が訪れるとともに帰ることを課長に促された。
しかし、溜っている仕事もあるし、実際それ程体調不良と言える程の状態ではなかったので帰る事を渋っていると

「ここで本当に何かがあると俺の管理体制に問題がある事にもなりかねない。」

と、かなり自己中心的とも思われる忠告を頂き、渋々帰る事となった。

しかし、実際には本当に体調には問題なく、むしろ少し寝たから調子がいいともいえる中で、真っ直ぐ家に帰るのも何だかもったいない気分になり、
時間がある時に寄っていたバーに久し振りに顔を出ししてみようかという気になった。

そのバーは少し寂れたような場所にあり、そのせいかいつも客がいない。
店の主人……マスター曰く
『いつもはそれなりに客がいる。』
との事なので営業が成り立つぐらいには客はいるのだろう。

マスターは私とそう年齢も変わらないと思われる男で、もう数年通っているので私とは顔見知り、行けば何かしら話をするような間柄だ。
この辺りに店を持つには少し若いような気がしないでもなかったが、店の居心地もいいのでそれにはあえて触れずに過ごしていた。

「ほんっと、久し振り。すごく会いたかった〜。」

「随分と熱烈なラブコールじゃねーか。」

「うん、せっかく勇気出してボトル入れたのにそのボトルにこうも長い時間会えないとなると、気持ちが昂っちゃって。」

「チッ、俺のことじぇねえのかよ。」

「いやいや、マスターにも会いたかったよ。マスターに会えるっていうのは少しでも自分の時間があるっていう事だからね。」

「おいおい、少しは俺に対しての愛とかねえのか。」

「あるある、親愛の情が。」

態度も見た目もクールなマスターなのでたぶんモテるだろうけれど、
一般論が自分に当てはまるとは限らない。
素直にそう答えると、マスターも何度か頷いた

「だな、俺も言ってて虚しくなった。で、そのボトルでいいのか?」

「うん、お願い。」

「OK」

クールに笑ったマスターは私専用のボトルを手に取ると鮮やかな手つきでふたを開け、氷が入ったグラスにほんの少し中身を注いだ。

「どうするよ、このまま行くか、それとも割るか?」

「いいや、そのままで。何か舐めていたい気分だから。」

「なんだそりゃ……。まあ、いい、ほらよ。」

「ありがとう。」

渡されたグラスを傾けて少しだけ口の中に入れると僅かに溶けた氷とウィスキーが混ざっていい具合の香りが口の中に広がり、
揮発するアルコール分を鼻からフーッと出すと何だか体中にアルコールが回ったような感じで気分がいい。
グラスの中身をジッと見てからテーブルに置くと氷の音がシャリンと響いた。


「で、今日のお題は?」

「え?」

唐突、尚且つおかしな物言いにそう問い返すとマスターはニヤリと笑った。


「おいおい、いつもそうだろ、あんたは。酒を舐めたいっていう時は何かを吐き出したい時だぜ。
あんたはここに“飲みに来る”んじゃねえ、酒を“舐めに来る”もしくは愚痴を“吐きに来る”だ。」

「こらこら、その最後の“吐きに来る”ってのは聞こえが悪いよ。飲みすぎてリバースしてるみたいじゃん。」

「そういう事もあったな。」

「もう懲りたから飲みすぎない。」


お酒は飲み方が重要だ。
気分を高揚させてくれて楽しくなるけれど、その臨界点を超えると待っているのは地獄だ。
臨界点を超えなくても自分自身を無くしてみっともない姿をさらすのもちょっと勘弁。
……まあ、どちらもやったことがあるからこそ言える事だけれど。

「じゃあ飲みすぎないうちに吐きだそうかな。」

「……それがいい。ほれ、サービスだ。」

そう言ってマスターはチョコレートとナッツをお皿に入れて出してくれた。

「ありきたり……チーズは?」

「嫌なら食うな。」

「ごめんなさい、いただきます。」

あっさりと下げられそうなお皿にガシッと手を添えて下げられるのを阻止し、チョコレートを一つつまむと口の中に放り込んだ。

「マスターの買ってくるチョコ美味しいよね。」

「あたりめえだ、俺を誰だと思ってる。」

「マスター。」

「だったらさっさと吐きたい事吐き出しな。古今東西、マスターの仕事って言えば酒を出す事と客の愚痴を黙って聞く事だ。」

なるほど、確かにそんなものかもしれない。
幾つかチョコレートをつまんでお酒を舐めた後、今日ここに来た理由……つまり愚痴を吐くためにマスターを呼んだ。


「ねえ、マスター。」

「失恋レストランか。」

「古い、昭和の匂いがする、まあ、いいや。マスターは会社勤めの経験ある?」

「ねえな。」

「そっか……じゃあ言っても通じないかな。」

「なんだよ、どうせ聞くだけなんだから言ってみろよ。」

「う〜ん……上司ってどう扱えばいい?」

「扱うたあ、随分な物言いじゃねえか。目上だろう?」

「まあ、目上って言えば目上かな。でもそれほど年齢も離れてないと思うんだけどね。
つい最近、直属になった上司なんだけどさ、なんか……面倒くさい。」

「は?」

「今までは可もなく不可もなくっていう感じで当たり障りなく過ごしていたんだけど、今度来た上司が妙に絡んでくるんだよ。」

「男か?」

「うん。」

「じゃあただ単に絡みてえんじゃねえか?あんたも一応女だし。」

「そういうんだったらわかりやすいんだけど、どっちかっていうと文句をつけてくるっていうのに近いかなあ。
仕事はね、きちんとこなしているんだ、今も前も。仕事さえこなしていれば文句を言わないのが上司ってもんでしょう。
だけど……なんていうか、その仕事への態度が気に食わないのかなあ……?」

「よくわからねえな。」

「仕事をこなすだけでいいと思うのかっていうような言い振りかな。
仕事のできる男にしてみればより上を目指すべく向上心を持って仕事をこなすんだろうけど……。
私は別にそういうつもりないの。
ただ、目の前にある仕事をこなすだけで精一杯、それ以上の事なんか考えている余裕ないんだよね。」

「まあ……考え方の違いかもしれねえな。」

「そうだと思うんだけどね。だから私はその上司がどれだけ上向き思考だろうが、
向上心を持って仕事に向かおうが関係ないし好きにすればいいと思っているんだけど、
それをこっちに強要するのって……ああ、パワハラ?」

「パワハラとは違うんじゃねえか?聞きようによってはあんたの事買ってくれてるいい上司のようにも聞こえなくもねえけどな。」

「いくら買ってくれてもこっちにその気がないんじゃ迷惑。万人が同じ考えとは限らないじゃない。」

「そりゃそうだけどな。」

そこまで言うとマスターは何かを思い出したように鼻でフフンと笑ったあとに話を続けた。

「……まあ……世の中にはいるんじゃねえか、真面目、実直のでくの坊、そんでもって不器用で……。」

マスターの過去を詳しくは聞いたことがない。
こんなふうに特定の人物に対しての思い出のような事を語るのも初めてかもしれない。
マスターが語っているであろう思い出の人物はマスターとは真逆のタイプのようで、それがまた面白かったんだろう。
マスターの口元には微かに笑みが浮かんでいた。

「面倒くせえ事も多々あるだろうけど、俺はそういう男って嫌いじゃねえな。」

「じゃあ、紹介するから素敵な世界に行っちゃって。マスターいい男だからきっとすぐに良い仲になれるよ。私は嫌だわ、面倒くさくって。」

「まあそう言わずにもう少しその上司の動向を広い目で見てやれよ。逆に絡んでみるとかしてな。もしかしたら違う一面が見えるかもしれねえぞ。」

(広い目で……絡む……ねえ。)


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