長編用
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額から流れる汗をハンカチで拭う。
夏休みだというのに私は高校へと来ていた。
廊下を歩いていると長太郎くんに会った。
「今日も暑いね」
「もう私倒れそう…」
「大丈夫?教室は冷房がついてるはずだから」
「そうね、早く行こう」
私は毎日毎日、進学コースの生徒の中で希望者なら誰でも受講可能な夏期の特別講習を受けに来ている。
それもこれも全部、大学へ進学するためだ。
長太郎くんとは夏期講習で同じ教室で受講するうちに、また前のように友達として普通に話すようになった。
「でも恵子ちゃんが夏期講習を受けると思わなかったなー」
「え?」
「大学進学も興味なさそうだったし、なにかあったの?」
「うーん…まぁ、いろいろありまして…」
いろいろあって、両親と約束してしまったのだ。
去年の冬、お見合いの話を断った流れで恋人がいて結婚を考えていると話した後、太郎さんはすぐに両親に挨拶に来た。
予想通り両親は太郎さんの年齢と職業に驚いていたが、お母さんは太郎さんを素敵な人だと喜んでいたし、太郎さんが持ってきたお茶菓子に夢中だった。
問題はお父さんだ。
断固拒否で、教師が生徒に手を出してだとかずっと怒っていたけど、それを全部受け止めて謝る太郎さんに、最後は何も言えなくなっていた。
結局、私の大学進学を条件にしてはどうかとお母さんが提案して、その場は収まったのだ。
何も大学進学を条件にしなくてもよかったのに。
お母さん曰く、絶対に一流大学へ受かれなんてことは言っていないんだからなんとかなるでしょう?彼のためにそれくらいの努力もできないなら別れなさい。だって。
私は当然何も言い返せずにその条件を呑むこととなった。
「それはさておき、夏と言えば夏休みじゃないの?」
そんなわけでお母さんが勝手に私を進学コースのクラスへ入れ、夏期講習の受講願いも勝手に出してくれたわけ。
おかげで全然太郎さんに会えない!
「まぁまぁ、しょうがないよ」
長太郎くんになだめられて歩みを速める。
とにかく、冷房のきいている教室へ早く入りたい。
本当は夏期講習のせいで太郎さんに会えないわけじゃないのは分かってる。
太郎さんは今もテニス部の顧問だ。
今年は全国大会出場も決定して最後の仕上げを行っている時期だろう。
それに教師は夏休み中にいろいろと講義を受けなきゃいけないらしい。
太郎さんとお付き合いする前はそんなこと全然知らなかった。
太郎さんは教師という職業にやりがいを感じているようだし、私もそこに関して文句は言いたくない。
それにほぼ毎日メールや電話で連絡してくれるから、会えない寂しさはあるけど待つことができた。
「え、本当に?」
電話口で驚いて大きな声を出してしまった。
「都合はどうだ?」
「大丈夫です!」
「一応ご両親にも話して承諾をいただくように」
えー…と返すと笑われた。
太郎さんが一日だけ日曜に丸々休みが取れそうだと言うので、デートに誘ってくれたのだ。
日曜なら夏期講習も休みだし、断るわけがない。
お父さんに話すのは気が重いけど、お母さんならきっと許してくれるはず。
「栃木の方まで行こうと思っている。そこまで行けば知り合いに会うこともまず無いだろう」
嬉しい。
今までずっとデートといえば太郎さんの家かドライブばかりだった。
教師と生徒という立場だったから仕方ないのだけれど…やっぱり外で普通にデートしてみたかった。
「夏期講習をがんばっているようだから、ご褒美も必要だろう」
優しい声音に、胸が高鳴った。
早く会いたい。
両親から無理矢理承諾を得て、私は晴れてデートへと来ていた。
太郎さんの運転で日光へ。
日光東照宮を見て回ったけど、すごい人混みだった。
でも、はぐれると困るからと太郎さんが手を繋いでくれたので混んでいて良かった。
太郎さんも楽しそうで、嬉しい。
日光東照宮を一通り見た後は、キスゲ平園地というところへ来た。
高地だからか涼しいし、高山植物も生い茂って散歩するには絶好の場所だ。
「きれいですね」
「ああ」
景色を眺めながら遊歩道を歩く。
色とりどりの花が咲いている。
「昔もこうして散歩したんですか?」
「昔?」
「前世で」
太郎さんは驚いているようだった。
いつもはポーカーフェイスで通っているのに、私の前だとすぐ表情に出る。
そんなところもかわいい。
「君は変わった」
その言葉にどきりとした。
しかし穏やかな表情から、悪い意味ではないのだとわかった。
「昔と言ってくれるようになるなんて、思いもしなかった」
「だって、今はちゃんと理解していますから」
「私を先生と呼ばなくなったし、話し方も変わっただろう」
「それはきっと、先生と呼んでいた時間よりも、太郎さんと呼んでいた時間の方が長いからじゃありませんか?」
太郎さんと呼ぶのに抵抗はなかった。
むしろ先生と呼ぶよりも自然に感じた。
風が通り抜けて、太郎さんの手が私の髪を耳にかけてくれた。
優しくて大きな手。
大好きな手。
「敬語は意識して使ってます。今は歳の差があるし、いつか旦那様になる方ですから」
太郎さんは照れたように微笑んだ。
私の大好きな笑顔。
「昔もよく一緒に散歩をした。私は庭師の手伝いもしていたから、私の手入れした庭を君は見に来てくれていた」
少しだけ頭が痛む。
庭でよく走り回った…彼の困ったような声が私を呼んで、私は彼が追いかけてきてくれることが嬉しくて…
「恵子?大丈夫か?」
「あ…ごめんなさい、大丈夫」
遠い記憶を探ろうとしてしまうときがある。
幸せな記憶を思い出したくなってしまう。
「すまない、昔の話はやめよう」
「でも、」
でも、太郎さんは覚えている。
昔の記憶を全部抱えて生きている。
私も一緒に背負いたい。
辛い記憶があるのもわかっていて、それでも一緒に背負いたいと思う。
「君が卒業したらもっとたくさんの場所へ行こう。昔の記憶は…今の思い出で上書きしたいんだ」
太郎さんは私の考えもわかっているようだった。
そして私が前世のことを思い出そうとすると苦しいということもわかってくれているのだろう。
太郎さんは生まれ変わって、私より長い時間を一人ですべてを抱えて生きてきた。
それがどれほど辛いことだったかは想像にたえない。
「恵子が受験に向けて努力してくれていることもわかっている。昔のことよりも、未来のことを二人で考えよう」
太郎さんの声は少しだけ掠れていた。
広がる野山を眺め頬を撫でる風を感じる。
隣には太郎さんがいて、手を伸ばせばすぐに届く。
たったそれだけのことが、幸せでたまらない。
太郎さんを見上げれば私を優しく見守ってくれている。
「秋には紅葉を見に行きたいです」
「ああ」
溢れそうになる涙は我慢した。
どうすることが正解かはわからない。
でも今は太郎さんの望むようにしてあげたい。
前世の記憶に捕らわれずに、今と未来を大切にしよう。
明日からの夏期講習が嫌で帰りたくないと漏らすと、そういう台詞を軽々しく言うなと怒られた。
帰りの車の中から眺める夕日が美しくて、私はまた泣きそうになってしまった。
太郎さんと見る世界はどれも美しすぎて切なくて、幸せでたまらない。
next.