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□The Figment World
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絵画の向こうからギャリーが声をかけてくる。
「二人とも!ねえ何してるの?早く来なさいよ!」
「ギャリー……っ」
異様な状況にうろたえていると、イヴの母親が絵画の向こうにあるギャリーの影を見て、そして俺の方を見て眉を顰めた。
「イヴ!」
母親の叱咤に、イヴの小さな肩がビクリと震える。
「知らない人について行ったらダメよ?何回も教えたよね?」
イヴがチラリと、俺とギャリーを見た。
困惑している目だった。
確かに俺もギャリーも、イヴにとっては“知らない人”だ。
小さな女の子が、知らない男……それも二人もいるのについていくなんて……駄目なことかもしれない。
「ほら、怖くないわよ?大丈夫だから!」
絵画の向こうから聞こえるギャリーの優しい声も、幼い少女をかどわかそうとする怪しい囁きに聞こえてしまうかもしれない。
「イヴ!お母さんの言うこと聞けないの?知らない人について行ったらダメ!もう二度とお母さんとお父さんに会えなくなっちゃうわよ?だからおいで……」
「イヴ!ほら、ひっぱってあげるわ!アサキもイヴを手伝ってあげて?さあイヴ、手を出して……」
厳しい表情で詰め寄る母親。
絵画の向こうで膝をつき、手を差し伸べるギャリー。
そんな二人の声が重なった。
「イヴ!!」
母親とギャリーの方を見ては戸惑うようにおろおろするイヴ。
けれどイヴは、やがて心を決めたような表情で俺を見た。
……絵画の中に飛び込む気だ。
俺はイヴに向かって頷くと、彼女の体を抱き上げて絵画の方へやった。
絵画に手を伸ばしたイヴが、その向こうで確かにギャリーの手を掴む。
「よし!引き上げるわよイヴ……アサキも早く来なさいよ!」
呼ばれて、イヴから手を離して絵画に向き直った。
軽く弾みをつければ、簡単に這いあがることができる高さ。
きっとギャリーとイヴも手伝ってくれるだろう。
そう思ったとき、イヴの母親がいた方からまた声が聞こえた。
「アサキ……」
また女性の声。
けれど、それはさっきまで聞いていたイヴの母親の声とは違っていた。
それなのに、聞き覚えがある声だった。
こんな場所では聞くはずもない声だ。
信じられないような気持ちでそちらを向くと、そこには自分の知る人物が立っていた。
さっきまで、そこにはイヴの母親がいたはずだ。
なのに今見れば、全く違う女性が立っている。
なんて都合がいいんだろう。
俺は思わず笑いそうになりながら、それでも全く笑えない気持ちで彼女の姿を見つめていた。
「お前……」
「アサキ……ここにいたんだ?」
俺の恋人。
二日ほど前に連絡を取ったきりで、今日俺がこの美術館に行くことは言わず、一人で来た。
彼女と上手くかみ合わない関係、彼女への気持ちを見つめ直すために、彼女の好きなゲルテナの作品が展示されたこの美術館に来た。
彼女とは少し、距離を置いてみたかった。
なのに今、ここにいる。
「なんでここに……」
「ゲルテナの作品、好きで……昔はよく一緒に見にいったよね。またこうして来れて嬉しいな」
「え……?」
戦慄する俺に、ギャリーの声がかかる。
「アサキ!どうしたの?アサキもこっちに来なさいよ!」
「なんかアサキの名前呼んでるけど……あれ、誰なの?」
彼女が絵画に浮かぶギャリーの姿を見遣りながら首を傾げた。
「アサキ、あっちは出口だよ?この美術館から出ることになっちゃう。まだもう少し見てようよ。向こうの方とか、まだ回ってないでしょ?」
彼女が嬉しそうに笑いながら廊下の向こうを指差した。
俺の腕に絡みつく、彼女の細い両腕。
「で、でも……」
「最近は一緒に出かけることもなかったよね……私、寂しかったんだ。でもアサキが美術館に来てくれて嬉しい。ねえ、また一緒にこうやって出かけたりしよう?最近ギクシャクしちゃってたけど、大丈夫だよ。私たち、まだやり直せる」
「!やり直せる……?」
ごくりと喉が鳴った。
「俺、まだ嫌われてないのか……?」
「私、アサキのこと好きだよ。まだこんなに大好き」
「俺、お前を喜ばせられるようなこともできなかったし……お前の恋人として、全然だめで……」
「そんなことないよ!アサキは私の気持ち、ちゃんと分かってくれてる」
彼女が楽しそうなとき、どうして楽しいのか分からなくて、それを共有できなかった。
彼女が悲しんでいるとき、どうして悲しいのか分からなくて、慰めてやることもできなかった。
世の中には、どうしても合わない奴っているんだなって、そういう仕方のないこともあるんだって……そう思ってた俺が、彼女の気持ちをちゃんと分かってるって?
「アサキ、行こう?」
彼女がにっこりと笑う。
絵画の向こうからギャリーの声がした。
「ちょっと、アサキ……どこ行くの?待って……待って!アサキ!!」
ギャリーの悲痛な声。
どうしてこんなに悲しそうなんだろう。
ギャリーに、つい気持ちを漏らして恋人とのことを相談してしまったことがあった。
そのとき、ギャリーは本気で俺を心配してくれた。
何かあったら何でも言ってって……俺の力になりたいって、言ってくれた。
それが今、うまくいくところなのに……なんで悲しそうなんだろう?
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