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□The Figment World
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久しぶりに戻ってきた美術館の中。

真っ暗で無音なそこでも、今まで歩いてきた道のりのことを考えれば、久々に見たこの光景がとても懐かしく、安心できるものに思えた。

おかしな世界に迷い込んで、イヴとギャリーと出会い、メアリーと出会って別れて、そしてここまで。

精神が不安定になりそうなスケッチブックの落書きの世界からこの美術館に戻ってきて、俺達の前を歩くイヴは、懐かしいとも思える作品たちを眺めていった。


「戻ってきたの……?元の美術館に……」


隣を歩くギャリーが、館内を見回しながら戸惑っている。

そのうち、イヴが一つの絵画の前で立ち止まった。

美術館二階の廊下にある、横幅十数メートルはあろうかという大きな絵画だった。


「何この大きな絵……『絵空事の世界』?」


作品名プレートを見たギャリーが、絵を見上げて言う。


「ねえ、この絵の場所……元の美術館じゃない?」


俺達の元いた美術館の様子が、絵画の中に描かれている。

絵画の下のプレートには、短い説明文みたいなものが添えられていた。


“一度入るともう戻れない
ここでの時間も全て失う
それでもあなたは飛び込むの?”


ギャリーがハッとしたように絵画を見上げた。


「もしかして……この絵に飛び込めば元の場所に戻れるの?!でも、絵に飛び込むってどういうことかしら……?」


目の前には、立派な額縁に収められた大きな絵画。

間近で見ている分、キャンバスの表面のザラザラした質感も、それを彩る絵の具も、筆の跡までハッキリ分かる。

この絵画に文字通り飛び込めば、その先には容易く想像できる通りの大惨事が待ち受けているだろう。


それよりも、絵画に添えられた説明文で俺が気になったのは“飛び込む”という言葉よりも、この一節だ。


「“ここでの時間も全て失う”……?」


もしこの絵画を使って元の場所に戻れるなら、この世界で過ごす時間がなくなるということなんだから当たり前だ。

ただ、そういう意味じゃない気がする。

ここで過ごした“今までの”時間が失われるっていう意味なんだとしたら。

こんなおかしな世界での記憶を、元の世界には持ち帰れない。

俺達がこの世界にいたことを忘れてしまうっていう意味なんじゃないかって……。


思案に耽っていると、薄暗い館内全体が急に明滅した。


「わっ、何!?」


パチパチと電気を付けたり消したりするように、チカチカするフロア。

フロア全体が眩しく光り、そして元の薄暗さを取り戻す。

眩む目を細めながら絵画を見ると、分かりやすい変化が現れていた。


「二人とも見て!額縁がなくなってるわ……!」


まるで窓のようになった『絵空事の世界』。

額縁がなくなって、キャンバスの表面もまるで鏡みたいに滑らかだ。

ただの絵画ではなくなっている。


(この中に飛び込めばいいのか……)


今の状態なら、この中に飛び込めばきっと元の場所に戻れる。

飛びだす絵画も、動く石像もいない、元の平和な場所に……。


(でも……いいのかな)


ギャリーとイヴの方を見た。

このおかしな世界で出会った二人。

灰の間、紫の間、茶の間、スケッチブックの世界、おもちゃ箱の中の世界……ここまでずっと、助け合いながらやってきた。

もうイヴもギャリーも、自分の中でかけがえのない大切な仲間になっていた。

その二人のことを忘れてしまうんだとしたら、俺は……。


戸惑っているうちに、ギャリーが絵画を睨み上げて、緊張したように息を飲む。


「今なら行けるかもっ……!」

「!ギャリー、待っ――」


驚いて止める間もなく、ギャリーは二、三歩後ろに下がり、助走をつけると、勢いよく飛びあがって絵画の中に飛び込んだ。

『絵空事の世界』の中に飲み込まれる体。

向こう側に、立ち上がってこちらを振り向くギャリーの姿がうっすらと浮かび上がっていた。


「やった!本当に入れたわ!」


たった今、目の前で起きた現象に息を飲む。

本当にこの絵画から向こうに行けるらしい。

驚くと同時に、ここから出られる喜びと、ここでの記憶を失うかも知れない寂しさに息苦しくなる。


「ホラ、イヴとアサキも早く!」


嬉しそうに言うギャリー。

イヴがホッとした嬉しそうな様子で、絵画のフチに手をかけた。

その時だった。


「イヴ……」


廊下の向こうから、イヴを呼ぶ女性の声がした。

イヴと俺、二人して驚き、そちらを見る。

絵画に入るのをやめてしまったイヴに、ギャリーが不思議そうに声をかける。


「イヴ、アサキ!どうしたの?ほら、来てごらん!」


けれどイヴは、ギャリーの声なんて聞こえていないかのようにフラフラと絵画から離れ、声がする方に向き直った。


「イヴ……?」


俺が声をかけても、彼女はこっちを見ない。

暗闇の中から姿を現したのは、どこかで見た覚えがある茶髪の女性だった。

灰の間のとある部屋に飾られていた『ふたり』という絵に描かれた男女のうちの片方だ。

あの絵画に描かれた男女を、イヴは自分の両親だと言っていた。

つまり、彼女はイヴの母親なのだ。


「なんでこんなところに……」


呆然と呟いている間に、彼女がイヴに向かって口を開く。


「もう……探したのよ!ダメじゃない、勝手にこんなところまで来たら!ホラ、お父さんも向こうで待ってるわよ。行きましょ?イヴ」


にっこり笑ってイヴを誘う母親。

まさか、イヴの父親もこの世界にいるなんて……。



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