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□The Hanged Man
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「ギャリー、あそこに人がいる」
イヴにコートの裾を引っ張られ、彼女が指差す先を見た。
フロア全体が灰色をした灰の間。
その入口に飾られた絵画をぼんやりと眺めている男性がいる。
アタシたちの他にも人がいた。
そのことに驚いている間に、男性がアタシたちの存在に気付いたように、ゆっくりと振り返った。
振り返った彼の、髪とか、顔とか、目とか、表情とか。
こちらを見る彼の全てに、思わず見惚れている自分がいた。
アタシたちを見て目を丸くしている男性に、イヴがてとてとと近付いていく。
止める間もなく、イヴが彼に声をかけた。
「あなたもここに迷いこんだの?」
「“も”ってことは……君たちも?」
彼がイヴとアタシを見て言う。
ああ、声も低くて綺麗。
「気付いたら美術館から誰もいなくなってて……変な一本道の廊下を見つけたから、そっちに進んだら、下に降りる階段があって……それからはよく分からないんだけどな」
男性が困ったように笑った。
「気付いたら帰り道が分からなくなってて、でもここも美術館の一部であることには違いないみたいだし……ほら、こうやって絵も飾ってあったりするだろ?だから、ぼんやり見て回ってたんだ」
確かに、ここにも絵や彫刻は展示されてるけど。
「でも……追いかけてくる石像とか絵とか、いなかった?」
「ああ、アレはすごいよな……美術品が生きてるみたいに動くなんて、どうなってるんだろう。俺が持ってる薔薇が欲しいみたいなんだけど、なんかコレ、渡すわけにはいかないみたいで……困ってたんだよ」
アタシやイヴと同じように、彼も薔薇を持ってるらしい。
結構深刻な事態のはずなんだけど……そのわりには苦笑してるだけで、命の危険を前にしても、怯えてるようには見えない。
「こんなところで何を見てたの?この絵画って……」
さっきまで彼が眺めていた絵を見上げる。
そこには、悲しそうな顔をしたウェディングドレス姿の女性が描かれていた。
作品名のプレートには『嘆きの花嫁』とある。
部屋の奥に続く廊下を挟んだ反対側の壁には、同じように悲しそうなタキシード姿の男性の絵画もある。
「この絵を見てたの?」
「うん。この花嫁が、なんで悲しんでるのかなって思って……」
そう言って、小さく笑いながら花嫁を見上げる男性。
その笑顔が何故か寂しげで、それ以上見ていられなくなったアタシは、思わず男性に名前を訊いて別の話題を振っていた。
「な、名前……アンタ、何ていうの?」
「え?俺は……アサキだよ」
「そう、アサキっていうのね。アタシはギャリー。この子はイヴっていうの」
「“この子”?……って、あの子?」
アタシの隣にいるはずであろうイヴ。
アサキがアタシの隣の腰の辺りを見て首を傾げてから、視線を向こうにやって言った。
「え?イヴならここに……」
すぐ隣にいたはずのイヴがいなくなっているのを見て、アサキの視線の先を見た。
すると、嘆きの花嫁と花婿の正面にそれぞれ展示された、うごうごと蠢く真っ黒な手の彫刻の前にイヴがいて、身を乗り出してそれを眺めていた。
「きゃー!イヴ!危ないわよ!」
「ねえギャリー、『悲しき“何とか”の左手』……これ、何て読むの?」
「い、いいから離れて!」
イヴを慌てて彫刻から遠ざける。
後ろから彫刻を覗き込んだアサキが、「“花嫁”だな」と作品名のプレートを見て答えた。
「それで、あっちが『悲しき花婿の右手』。……俺はアサキ。よろしくな、イヴ」
「アサキ……よろしくね」
微笑み合ってちょっと和やかな雰囲気になってるイヴとアサキ。
確かに、よく見るとこの彫刻に危険なところはないみたいだけど……何があるか分からないんだから、ちょっと警戒するのも無理はないでしょ!
「ギャリー、アサキ、絵の中のお嫁さんが悲しんでるの、この手と何か関係してるのかな……」
「……そうかもしれないな。この先に何かあるのかも……」
アサキが考え込むように呟く。
アタシもイヴを離して頷いた。
「そうね。それじゃ、先に何かないか調べましょ?」
「うん。アサキも、一緒に行こう」
「え?」
イヴに指先をちょいと引っ張られて驚くアサキ。
「一緒に出口さがそう?」
「あ……そうか。うん、出口か……。出なきゃいけないんだったな……そう言えば」
まるで、ここから出ることなんて頭になかったような口ぶり。
そんなことより、もっと別のことに思い耽っていたように見える。
イヴに手を引かれ、このフロアを後にしながらも嘆きの花嫁の絵画の方を見遣って呟くアサキ。
「……嘆きの花嫁、か……」
たった今出会ったばかりの、憂うような表情の目立つ男性。
まだこの人のことなんて何も知らないのに……それでもとか、もっと知りたいとか、自分のことを知ってもらいたいとか、そんなよくある感情を抱く自分がいる。
アサキは男で、アタシも男で。
一目惚れなんて有り得ないって話だってあるけど。
アタシは同性のアサキに、あろうことか一目惚れをしちゃったみたいで。
でも、こんな非常時だから。
アタシもアサキも男だし、イヴだっているんだし。
気のせいね、と思い直して、二人と一緒に先に進むことにした。
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