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□不思議な世界
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絵画から彫刻まで、様々な作品が並ぶワイズ・ゲルテナ展。
床に直接描かれたような深海の絵だったり、頭がない女性の石像だったり、巨大な薔薇のオブジェだったり。
ゲルテナはマイナーな芸術家らしいけど、美術館に来ている人達はみんな、作品を熱心に眺めている。
時々、無意識に感嘆の声を漏らしている様子から、熱烈なファンは多いことが察せられた。
かく言う私もゲルテナの世界に浸りながら、小さな美術館をゆっくり歩いて回っていた。
そして、鑑賞を始めてどれくらいの時間が経った頃だろうか。
ふと、周りに誰もいないことに気が付いた。
ポカンとする私と、美術品たちだけが整然と並ぶ静寂の空間。
元から人は多くなかったけど、警備員やスタッフの姿まで見当たらないというのはおかしい。
館内にゆったりと流れていたBGMも、今は消えてしまっている。
照明まで落ちて、すっかり暗くなってしまった館内。
閉館にはまだ早すぎる時間だと思うけど……。
私はキョロキョロと周りを見て、人を捜して歩き始めた。
どこかから、人が歩く足音が聞こえる。
(誰かいる……?)
急に近くで男の咳払いが聞こえて、素早く振り返れば、そこには『せきをする男』の絵画が展示されていた。
そして猫の鳴き声が聞こえたと思えば、すぐそばに黒猫が描かれた絵画があったり。
(何これ……)
たちの悪い悪戯?
明るかった窓の外は真っ暗で、一階の受付カウンターの脇にある窓には、赤い液体が滴っていた。
その液体が何なのか、内側と外側のどちらに付いているのか、近付いて確認する気にもなれない。
どういうわけか、美術館のドアは鍵を捻っても、体当たりをしても、何をしても開けることができなかった。
(どういうこと……?)
そして途方に暮れながら辿り着いた、一階のメインホール。
床の真ん中に、大きく深海の絵が描かれたフロアだ。
タイトルは『深海の世』。
さっきまでは大きな絵画の周りをぐるりと囲うようにロープが張られていたが、今はその一部が撤去されている。
ロープがなくなった部分の床には、ペンキで付けたような足跡がこびり付いていた。
色は二種類で、大きな青い足跡と、小さな赤い足跡がいくつか残されている。
まるで、ここから誰かが、この深海の絵画の中へ落ちていったような具合で。
(まさか……)
そんなおとぎ話みたいなこと、あるはずがない。
でも、町の美術館の粋な演出というにはあまりにも不気味で、悪ふざけが過ぎていると思った。
誰もいない館内。
もし本当にこの絵画の中に入ることができるとして、この中に行けば誰かに……人に会えるのだろうか。
さっきまで聞こえていた誰かの足音はもう聞こえない……この中に入ってしまったのかも知れない。
「……」
ロープが撤去された部分に立ち、足元でぽっかりと口を開ける深海の世に息を飲む。
私は思いきって一歩、足を踏み出した。
深海の絵画の先には、暗くて気味の悪い世界があった。
水の中、なんてことはなく、空気がたっぷり溜まった空間だ。
壁には絵画が飾ってあって、ここも美術館の一部であるにはあるらしい。
ただ、さっきまではこんなフロアは一度も目にしなかったし、人がいないことにも変わりはなく、何よりフロアの空気が異常に重い。
思わずゾッとする雰囲気。
本当にこんなところに人がいるのだろうか。
そう思いながらもとにかく歩き続けたその先で、ぽつんと置かれた小さなテーブルを見つけた。
テーブルの上の花瓶に、一本の薔薇が活けてある。
これが美術品であるにしろ、美術館を彩る飾りであるにしろ、勝手に触るのはまずい気がする。
……ただ、これ以外に目ぼしいものが何もないのが問題だ。
すぐそばにあるドアは鍵がかかっているみたいで開かないし、他の道をあたっても行き止まりだし。
(この花瓶の下にドアの鍵が隠してあったりしないかな……)
自宅のスペアキーを庭の植え込みに隠すとか、そんな感じで。
そっと花瓶を持ち上げてみたが、下には何もなかった。
花瓶の中はどうだろうと思って覗き込んでみたけど、薔薇が邪魔で中が見えない。
水が入っている手前、あんまり強く振って確認することもできない。
仕方ない。
私はすぐに元に戻すつもりで、花瓶から薔薇を抜いた。
そして花瓶の口を覗き込んでいるうちに、すぐそばのドアからガチャリと音がした。
「え?」
鍵が開いたみたいな音だ。
驚いてドアを見つめているうちに、ドアと反対側の壁からドンッと音がした。
驚きながらそっちを見ると、たった今まで何もなかったはずの壁に、いつの間にやら白い紙が貼りついている。
周りを見ても誰もいない。
たった今、誰かがここに紙を貼ったようには思えない。
もしそうだったとしたら、足音なんかで気付いているはずだ。
……なんだか気味が悪い。
私はひとまず薔薇を花瓶に戻し、テーブルの上に置いた。
すっかり参りながら、張り紙の内容に目を通す。
張り紙にはこう書かれていた。
“そのバラ 朽ちる時 あなたも朽ち果てる”
“バラとあなたは 一心同体 命の重さ 知るがいい”
(え……?)
思わず、テーブルにある薔薇を見た。
一本の薔薇が綺麗に咲いているが、よく見ると、花びらには少しばかり元気がない。
(……この薔薇が私の命と直結して……連動してるってこと?)
私が死ねばこの薔薇も枯れるし、この薔薇が枯れれば、私も死ぬっていうこと?
……そんな馬鹿な話があるだろうか。
趣味の悪いおとぎ話だ。
……でも私は、絵画を通り抜けてこの奇妙な場所に来た。
懐中時計を持った白ウサギを追いかけて穴に落ち、不思議の国に迷い込んだ少女みたいなことをしたのだ。
もしかすると、もしかするのかも知れない。
「……ないない。ないって、まさか、あはは……」
乾いた声で笑いながら、花瓶から薔薇をもう一回抜いて手に取った。
この薔薇が私と一心同体?
これが朽ちたら私も朽ち果てる?
……そんな馬鹿げた話の真偽を確かめる方法は、一つしかない。
美術館に飾られているものを壊すのは、ちょっと気が引けるけど……植物なんていつかは枯れるものだし、花びらの一枚ぐらい、ちぎっても、花瓶を元に戻したあとで花びらをそばに落としておけば、ちょっと花が散りかけてるのかなーぐらいにしか思われないだろう。
ただ、その辺の心配はいいとしても、もしも張り紙に書かれた内容が本当だったら、花びらをちぎるってことは……。
(……まさか、そんなわけないよね。馬鹿げてる……でも)
震える手。
そっと伸ばした指先で、薔薇の花びらを一枚、そっと摘んだ。
そしてグッと引っ張る。
花びらがちぎれるブチッという嫌な音がした瞬間、私の体に何とも言えない衝撃が走った。
「――ッ!?」
思わず体を丸めて蹲(うずくま)る。
体の中から、外から、ズクリと刺すような、握りつぶすような、一言では言い表せない苦痛が襲いかかってくる。
「……ッ!!」
とっさに握りしめた手を震わせながら開き、その中でよれよれになってしまった一枚の花びらを見つめた。
(そんな……これが、私の命……!?)
この花びらが全部散ったら、私は死ぬってこと?
……もう、薔薇をテーブルに戻す気にはなれなくなった。
このままここに置いておいたら、花びらがいつ散ってしまうか分からない。
私は花瓶だけをテーブルに戻し、薔薇をそっと握りしめた。
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