BOOK_DUNST
□後
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そうして私達が辿り着いたのは、前にも二度、夜に来たことがある大鏡の前だった。
利吉さんと一緒に来て、不思議な長髪の人物を見かけた場所。
この鏡の奥の隠し部屋で、三郎くんと会った場所。
「大鏡……だね」
広い空間の中にポツリと存在する鏡を見て、雷蔵くんが不思議そうに言った。
「この鏡がどうしたの?」
「もしかしたら、ここにいるかも知れないと思って……」
「……え、まさか、この鏡の中ってこと……?」
途端に顔を青くした雷蔵くんが、大鏡に近付いてまじまじと観察する。
「夜の鏡って不気味だなぁ……。そう言えば、大鏡にまつわる怪談だって聞いたことあるような気がするし」
私も雷蔵くんのそばで大鏡を観察してみるが、特に変わった様子はない。
鏡に不審なものが映り込んだり、鏡が動いたりもしない。
(ここにはいないのかな……?)
大鏡の奥の部屋は、この学園の色んなところに存在するらしい。
もしかしたら三郎くんは、他の大鏡の部屋にいるのかもしれない。
そもそも、三郎くんが大鏡の部屋の中にいるっていうこと自体、私の憶測でしかない。
(他に、大鏡がある場所は……)
そう考えて、ふと踵を返した私の足が、床に落ちていた砂を踏む。
ちゃんと掃除されていなかったのだろう。
靴の裏にざらついた感触があって、少し大きめの砂の粒を踏むと、静かな廊下にパキッという乾いた音が反響した。
水をうったように静かな空間。
月明かりさえ差してこない、真っ暗な空間。
少し雷蔵くんから目を離しただけで、ここには私一人しかいないんじゃないかという錯覚に陥って、途端に不安になる。
しっかり床に立っているはずなのに、体がフラフラするような心許ない心地になった。
その時、後ろから笑い声がした。
うっかり喉から漏れたような、乾いた笑い声。
雷蔵くんの声だった。
「あはは……あれ?」
振り返ると、雷蔵くんが大鏡をジッと見つめていた。
「大鏡の噂って、作り話だと思ってたんだけど。三郎だって、胡散臭いって笑ってたし……おかしいな」
私が立っている位置からは、こちらに背を向ける雷蔵くんの顔も、鏡に映った雷蔵くんの姿も見えない。
「こんな顔してないのに……僕、今、笑ってるんだよね……?なのになんで……」
三郎くんが中にいるんだ。
そう思い当たってハッとすると、雷蔵くんがこちらを振り向く。
青い顔をして笑っていた。
「いろはちゃん、僕、夢でも見てるのかな……。あれ、どこからが夢なんだっけ」
大鏡に背を向け、考え込んでしまった雷蔵くん。
大鏡を確認しにいこうとした私の後ろから、声がかかった。
「雷蔵……?」
ハッとして振り向くと、廊下の曲がり角のところに、雷蔵くんと全く同じ姿の三郎くんが立っていた。
私の顔を見て、「奥山サンまで……」と呟いている。
三郎くんが、そこにいる。
……じゃあ、鏡の奥にいるのは、雷蔵くんの鏡像でも、三郎くんでもないなら、誰になるのか。
慌てて大鏡を覗きこめば、そこには明らかにおかしい鏡像があった。
雷蔵くんはこっちを向いているはずなのに、鏡に彼の背中が映っていない。
雷蔵くんと同じようにこっちを向いている。
そして、雷蔵くんの正面に立っている私が映っていない。
もはや鏡とは言えないような、ただの不可解な窓のようになってしまっていた。
「ら、雷蔵くん……?」
鏡の奥に立つ人物に向かって呼びかける。
そこに立っている雷蔵くんは、何故か髪が長くて、なんだか昔の着物のような服を着ていて。
「……ごほっ」
俯いて考え込んでいた雷蔵くんの喉から、咳が漏れた。
それと同時に、鏡の奥の雷蔵くんの首が赤く染まる。
趣味の悪いスプラッタ映画のようだった。
「っ!ごほっ、ごほ、ッ……ぐっ、ゲホッ!ゴホッ!」
「雷蔵くん!」
苦しそうに咳き込みだした雷蔵くんが、ゆっくりとその場にくずおれていく。
「雷蔵!」
雷蔵くんの様子に気付いた三郎くんが走ってくる。
他に人なんかいないはずの夜の校舎で、思わず助けを求めるように辺りを見回すと、窓の外が真っ赤に染まっていることに気が付いた。
「え……!?」
さっきまで真っ暗だった窓の外。
その窓に、赤黒い液体を隙間なくベッタリと塗りたくったような。
ペンキとも絵の具とも言いがたい色だった。
鏡の奥に立っていた人影は、とうとう本格的に鏡像ではなくなり、鏡の奥から手を伸ばし、咳き込む雷蔵くんの腕を掴む。
苦しそうな雷蔵くんが振り返ると、そこには、もはや雷蔵くんだと分からない、恐ろしい化け物がいた。
さっきの長い髪や、古い着物は同じ。
けれど、顔が分からない。
強い力で腕を引かれる雷蔵くん。
連れて行かれる。
「雷蔵くん……!」
慌てて雷蔵くんのもう片方の腕を掴んで引っ張った。
途端に、ズキリと体中に言いようのない痛みが走る。
(何これ……!?)
とっさに手を離した途端に雷蔵くんが引っ張られ、慌てて腕を掴み直してもう一度引っ張る。
この世のものじゃない、一般的な常識じゃ説明なんかつかない、得体のしれない何かが鏡の中にいる。
一緒に雷蔵くんを助け出そうとしていた三郎くんが、大鏡の方を忌々しげに睨みつけた。
「こいつ……ッ」
けれど、鏡の中の人影をまともに目にした瞬間、鋭い目つきが曇る。
目を見開き、その顔を両手で覆った。
「あ……ッ、痛い……?何だこれ……!?つッ……!!」
ぐちゃぐちゃになって人相が全く分からない、鏡の奥の人影。
まるでその痛みが全て移っているかのように、三郎くんが顔を覆って苦しむ。
苦しむ三郎くんと、咳き込む雷蔵くんと、そんな彼を捕まえる鏡の奥の人影。
真っ赤に塗りたくられた廊下の窓。
どこからか曇った悲鳴が何重にも重なって聞こえてきて、夜の校舎に反響して鼓膜を揺らす。
鏡の奥に雷蔵くんを引きずり込もうとするような人影。
最初は雷蔵くんだと思っていたけど、もしかしてこれは、
(三郎くん……?)
どうしていいか分からず立ち竦む私に、蹲ったままの三郎くんが叫んだ。
「いろは!!雷蔵を助けてくれ……鏡を割ってくれ!!」
「!」
たった今、鏡の奥にいるのは三郎くんなんじゃないかと推測を立てたばかりの私は、三郎くんのそんな言葉を聞いて困惑していた。
割ってもいいのだろうか。
でも、このままじゃ雷蔵くんが危ない。
私は廊下の隅にある掃除用具箱に駆け寄ると、中に入っている箒を、三本ほど束にしてまとめて取り出した。
大鏡の方へ駆け戻り、箒の先を力いっぱい叩きつける。
ガラスが割れるような音がして、見ると、大鏡に走った亀裂からドクドクと赤い液体が流れ出した。
「……ッ!」
これは三郎くんの血なんじゃないか、って。
直感的にそう考えて、ゾッとした。
手が震えて、箒をバラバラと取り落とした。
箒が床に叩きつけられる音に紛れて、低い声が聞こえてくる。
――見つけた
――捕まえた
――やっと会えたのに
――邪魔するな
――邪魔するな
――邪魔するな
批難するような声が脳内に響いて、目が霞む。
体に力が入らない。
気が遠くなって、視界がグルリと回る。
体から全ての力が抜け落ちて、床に倒れ込む瞬間、何かにガバリと捕まえられたような気がした。
遠くなる意識の中、誰かに抱えられて、引きずられながら移動していくような、そんな感覚を味わいながら、もう何もできないでいた。
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