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□雨、そして時雨。
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ーーーおかえりお姉ちゃん、遅かったね?
『うん、途中でムギちゃんに会ってね、雨宿りしてたから駅まで送ってきたんだぁ』
ーーーそうだったんだ…優しいね、お姉ちゃん!
『えへへー。…けど、なーんかムギちゃんが寂しそうに見えたんだよね』
ーーーへ?紬さんが?なんかあったのかな。
『うーん、分かんない。なんとなくそう見えたんだよねぇ…そう思ったらほっとけなくて。不思議だなぁ』
ーーー紬さん、なんともなければいいね…あれ?お姉ちゃん肩濡れてるよ?
『そうだねぇ…え?おわ!本当だ、いつの間に!!』
ーーーえ、気づかなかったの?大変、すっかり冷えてるじゃない、寒くないの?!ほら、タオル!
『あーうー…気づいたら寒くなってきたよぅ…うーいー』
(2)
……そう、寂しそうに見えたと言った。ほっとけないとも言った。体が冷えるほど濡れていたのに、それにさえ気づかないほど、あのときの唯は何かに気を取られていたのだ。
なにに?とはもう言えない。答えは目の前にある。
これまで憂以外に見せることのなかった笑顔を浮かべて歩く姉。その笑顔を向けられているのは、先日唯が話していた相手。
気づくと指先が真っ白になるくらい傘の柄を握っていた。胸が苦しい。鉛を飲まされてぐるぐるかき回されているようで、鋭いナイフでひと突きされたような痛みも走る。
それがどういう感情なのか憂にはわからなくて、混乱して、その場からわけもなく逃げ出したくなった。
だが。
「…あ、うーいー!!」
その前に唯に気づかれてしまった。ぶんぶんと満面の笑顔で手を降って、紬に一言二言声をかけると、雨の降るなか憂の元へ走ってくる。
しかし道路を渡ろうとして信号が赤になってしまった。「あーもぅ!!」と足止めされて雨に打たれる唯に、憂は駆け寄りたくても駆け寄れない。早く唯を傘の中に入れたいのに、目の前を車が遮るように横切って。
お姉ちゃんが濡れちゃう!風邪引いちゃう!早く信号変わって!
地団駄踏んだって時間が早まるわけはないが、憂は気が気でなかった。逃げ出したい衝動は姉の事態に一気に萎んでしまっていて、そわそわと唯と信号機に視線を走らせる。早く、早く変われ、と。
そしてようやく車道の信号が変わって視界が開けると、しかしそこには。
「もう、唯ちゃんったらずぶ濡れなっちゃうじゃない」
「へへ、ついつい〜。ありがとうムギちゃん」
そこには、紬に差し出された傘に収まる唯の姿。申し訳なさそうに、嬉しそうにはにかむ、大好きな姉の姿。自分に向けてほしかった、その笑顔。
信号が青になって、唯が憂の元に走ってくる。背中から律のからかう声や澪のため息混じりの声が追ってくる。そして、紬の笑い声も。
「うーーいーー!ありがとう!」
動かない憂に構わず、唯がぎゅーっと抱きついた。変わらない柔らかさが憂を包み込み、重苦しい胸の痛みを瞬時に消し去る。
けれどすぐ、「あ」という声と共に唯は離れた。
「ごめん、わたしずぶ濡れだね。憂濡れちゃう」
髪の毛をしっとりと顔に張り付かせ、雨に打たれて重くなった制服で。確かに抱きつかれたら濡れてしまうが、それがなんだというのだろう。
自分を見つけて雨の中走ってきてくれた姉を、そんなことで拒否することなんてできないししたくない!
「うい?」
「おぉ?憂ちゃんから抱きつくなんて珍しいな」
「ていうかどうしたんだ?濡れるぞ憂ちゃん」
突然、激しく湧きあがる感情に突き動かされるまま唯に抱きついた憂。きょとんとする唯と驚く一同に我に返り、すぐに離れようとしたが、唯がとても優しい表情で憂の頭を抱き締めて
「うーいー」
と名前を呼んだので、無償に泣きたくなってしまった。
あぁ、あんなに苦しかったのに、この一言でなにもなかったように安心できるだなんて。なんでどうして、こんなにお姉ちゃんが大好きなんだろう。
それから三人と別れて二人で帰った。ずぶ濡れの唯を心配して早歩きで家路を急ぐのに、唯はそんなこと気にしていないように雨の日の童謡なんて口ずさみながら。
「…ねぇ、おねぇちゃん」
「んー?」
のんびりした鼻唄混じりに答える唯。傘は唯が持っていて、その反対側はやはり雨に打たれていて。
なんで今、傘がもう一本ないんだろうと本気で思う。そうすれば手を繋ぐことができるのに。
「うい?濡れちゃうよ?」
「…うん」
歩調を緩め、代わりに唯の腕に腕を絡ませる。こつんとその肩に頭を寄せて。すがるように寄り添う。唯もそれ以上はなにも言わず、鼻唄を口ずさむ。
「ういーお腹空いたね」
「…うん」
「ういーお迎えありがとうね」
「…うん」
「ねぇ、おねぇちゃん」
「んー?」
「…今日、一緒に寝てもいい?」
「いいよー」
本当に聞きたいことは口に出せないで、憂は代わりにそんな事を言った。唯は「いいよ」とだけ答え、あとはただ、こつんと妹の頭に自分の頭を乗せた。
いつもと様子の違う妹にとうに気づいているが、あえて聞かず見守る姉の優しさを憂はありがたく思った。
優しい優しい姉。ずっと自分の側にいると思っていた。ずっとその笑顔を独占できるものだと思っていた。
ーーーおねぇちゃん。おねぇちゃんの手は、今どこに差し伸べられてるの?
唯の濡れた肩。今は冷たく感じてるのか、なんとも感じていないのか。憂はひどく気になったが、それを口に出す勇気はなかった。
―――あの日、例えなにか気づいたとしても、一体なにができたというのだろう。
『雨、そして時雨』END