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□雨、そして時雨。
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あの日、私はなにも気づいていなかった
『雨、そして時雨』
「あ、降ってきた」
学校帰りに夕飯の材料を買いにスーパーに寄っていたら、ぽつぽつと滴が落ちてきた。
鉛色の空を見上げながら憂が真っ先に思ったのは姉の唯のこと。今朝も例の如く遅刻ぎりぎりに出掛けた唯は、傘立てから傘を取る時間さえもったいないとばかりにバタバタと登校していったわけで。
「大丈夫かなぁお姉ちゃん…迎えに行こうかな」
とてもとても姉思いの出来た妹は、次第に強くなる雨足に居てもたってもいられなくなった。ずぶ濡れになって「う〜い〜」と玄関に立つ唯の姿を考えるだけで、もうたまらない。
だばだばと雨は激しくなる一方で。憂は意を決して姉の通学路へ足を進めた。
……………
憂は姉を愛していた。
と、言ってしまうとそれまでだが、それは家族愛という括りに納めきれない感情であることを、ずいぶん前から憂は自覚している。それはある意味、家を空けがちな両親のおかげとも言えた。
何かあればすぐ二人きりで出掛けてしまう両親は、おかげでしっかり者になってしまった妹を頼りに、さらに家を空けるようになった。もちろん育児放棄といった類ではなく、ただ万年新婚さんいらっしゃい状態なのだ。連絡もよくしてくるし、帰ってくると真っ先に愛娘たちを抱き締めてくる。姉妹も両親のことが当たり前に大好きだ。
特殊な家だねと平沢家を知る親しい友人知人は言うが、それが普通になってしまった今はなんとも思わない。だって私にはお姉ちゃんがいるから。と憂は笑うのだ。
両親と離れるよりも、憂にとっては唯と離れることの方が身を引き裂かれるほど辛い。姉の笑顔のない家に居てなんの意味があるのだろう。両親への愛は当然あるが、そのベクトルは断然姉へと向けられていて。
例え、例えばである。万が一両親が離婚したとして(まずありえない話だが)、どちらかへ引き取られるとしたら。憂は唯と二人きりで暮らす事を選ぶ。どちらかなんて選べない。けれど唯と離れて暮らすだなんてもっと考えられない。もう唯を天秤にかけることすら出来ないくらい、憂は唯を愛している。愛してしまった。
だって、両親は知っているだろうか。
親が恋しくて泣く憂を、自分も寂しいのにずっと手を繋いで励ましていた唯のことを。
親を探して家から出てしまい、迷子になって泣いている憂を、泣きながら懸命に探して抱き締めた唯を。
熱を出して寝込んだ憂を、寝ないで看病して自分も寝込んでしまい、先に完治して泣きながら謝る憂に「治ってよかったね、憂」と苦しいのに笑顔を浮かべた唯を。
妹の前だけに見せたその必死さを、健気さを、向けられた愛情を。
どうして愛さずにいられよう。両親の代わりにその小さな体で精一杯、全力で妹を守る姉を、どうして、どうして愛さずにいられようか。
常に手を差し伸べてくれている唯。その温かく、柔らかく、慈愛に満ちた手に、存在に。憂はいつも助けられていた。包まれていた。
唯の部活仲間たちは「どっちが姉だか分からない」とか「出来た妹」と言う。とんでもないと憂は思う。端から見たらどんなにだらしなく映ろうが、唯は昔と変わらない。間違いなく憂の姉で、無条件に自分を守ってくれる、愛してくれる存在なのだ。
…
……
……………
「…近くにいるから…迎えに行くよ、っ…と。よし」
一応メールを送り、携帯を制服のポケットにしまう。返事はすぐに届いた。ほんの目と鼻の先ほどの距離のところにいるようだ。
スーパーの買い物袋がかさかさと足に当たり、袋から伝った滴が膝下を濡らす。雨続きの最近は湿度は高いが気温は上がらない。夏服の制服も今日ばかりは少し寒くて、憂は「カーディガン引っ掻けてこればよかったかな」と腕を擦った。それでも唯の笑顔のためなら何でもない。きっと姉は自分を見つけたら、駆け寄って抱き締めて冷えた体を温めてくれるだろう。
その温かさが恋しくて、憂は足を早めた。そして、その視界は見慣れた姿をとらえた。
道路を挟んだ反対側の道を歩く姉と、一緒にいるのは軽音部のメンバーだった。先を歩くのが律と澪。後ろを歩くのが唯と紬で、唯は紬の傘に入れさせてもらっているようだが。
「あ、おねぇちゃ…」
そう呼ぼうとして、憂はハッと口ごもる。
唯が紬に向ける笑顔。それはいつも憂だけに向けられているもののそれで。両親や親友の和でさえ向けられることのなかった笑顔だった。
…あれ…?なんで、そんな顔…
呆然と唯を見つめる憂。よく見れば紬の傘を持っているのは唯のその手で。親しげに寄り添う肩の反対側は唯の肩のみ濡れいている。
それは数日前、唯の話していた事を再現しているようだった。
……あの日、あのとき、帰宅した唯はなんと言っていただろう。
憂は止まってしまいそうな思考を掻き分け、なんとか思い出そうとするが。それは心乱れる今の憂にはひどく困難な作業に思えた。