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□波紋。
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「じゃー合宿中は憂ちゃんはお留守番なのね。寂しくないかしら」





 それは何気ない一言のはずであった。お姉ちゃん大好きな憂を思ってぽろりと出てきた一言だったのに。唯は意外な返事をした。









(2)









「そうなんだよ、合宿のことは憂に話してあるんだけど…なんか憂最近おかしいんだよね」


 だらしなく溶けていた体がむくりと起き上がり、急にその顔が姉の表情へと変わる。


「おかしいって?憂ちゃんが?どんなふうによ」

「うーん、何て言えばいいのかな。言いたいことがあるけど黙っていて、でも言わないのも苦しそうな…こないだの雨の日からなんだよね」

「…言いたいこと…あんたなんかまたしでかしたんじゃないの?憂ちゃんが思い詰めるようなこと」

「えぇぇぇ?!ない、ないよぅ和ちゃーーん!! …たぶん。いやっ!ないよ! ……たぶん」

「あんたの百面相は本当見てて飽きないわ」


 言い切って不安になっての繰り返しをする唯の表情は、明るくなったり険しくなったりくるくる変わって飽きさせない。
 しかし唯が、憂に対して傷つけるようなことをすることは決してない。和はそれをよく知っている。
 幼い頃、まだ唯が姉らしくあった頃(端から見るとそれはごくわずかな時期に見えるが)から変わらない。唯はその小さな手と腕を精一杯伸ばして妹を守っていた。

 いつも笑えるように、寂しくならないように。
 辛くならないように、安らかな眠りを邪魔されないように。

 まるで親鳥がその羽を広げ、雛を包み込むように。


 それを少し羨ましく見ていた和はもちろん冗談でそう言ったのだが、唯が赤くなったり青くなったりしている姿が申し訳ないと思いつつ、おかしくて仕方なかった。
 そんな和に気づかず、唯は一人途方にくれた表情を浮かべる。頭の中ではきっとここ数日の妹への言動を思い出しているのか。
 いや、そんなことは妹の様子に気づいた時から考えていたに違いない。


「冗談よ…思い当たる事がないとなると…あ、けど憂ちゃんどんな様子だったの?」

「んと…こないだまた傘忘れた日なんだけどね。あ!朝までは普通だったんだよ? 部活終わって帰ってたら憂からメールが届いてて。迎えに来てもらってからなんだよね、すごく…なんていうんだろ。普通にしてるように見えるんだけど、苦しそうなんだ。それなのに前よりも一緒にいたがるっていうか」

「へぇ…確かに唯に言いたいことがあるようにも感じるわね。実際見てないかわわからないけど」


 「でしょぉ?」と体を乗り出す唯。いきなり目の前にずずぃっと顔面がアップで迫る。唯のオーバーリアクションには慣れている和は、「そうね。唯、近いわ」とおでこを手のひらで押し返した。
 あぅ、と呻いて椅子に座り直した唯がおでこを撫でるのを見て和和は話を戻す。


「何か危険なことでもあったのかしら…」

「危険なことって?」

「んー痴漢とか?」

「……〜〜〜っ?! ち、ちか…ぶぐっ!!!」


 「痴漢」というワードに目を丸くして叫ぶ寸前に和はその口を塞いだ。今の勢いでは廊下どころか学校全体に校内放送並みの威力で響きそうだった。
 「叫ばないの!」と険しい顔で言う和にコクコクうなずくのを見て、口を解放する。ぷはぁと深呼吸して、とたんに唯は泣きそうな表情を浮かべた。


「うぇ…どうしよう和ちゃん、本当に憂がそれで悩んでいたら…言えないで悩んでいたら…わたし、わたし…っく…」

「まだそうだと決まってないんだから泣かないの。唯が泣いたってしょうがないでしょ? それで、憂ちゃんに唯は聞いてみたりしたの?」


 目の端にぽちりと溜まった涙を親指で拭き取ってあげながら、和は叱咤するように言う。痴漢という言葉を不用意に使った事を悔やむ。
 ただ、もし万が一そうだとしたら、なかなか相談できることではないし、怖くて姉にすがり付くのにも想像がつく。

 …そうでないことを祈るけど、 もしそうだったら憂ちゃんの傷は計り知れないかもしれないわね。

 そうなるともう唯や両親しかその傷を癒すことはできないようにも思えた。
 唯は鼻を啜りながら首を振った。


「…う、憂は言うことはきちんと言えるコだから、わたしから…っ、無理にはきいたりしないんだ」

「そうね、そんなコだったわね。けど一度聞いてみるといいんじゃない?それで話さないのであれば、向こうから話してくれるのを待つ他ないわね」


 自分のことよりも相手、特に姉を思う優しい憂。もし苦しいのであれば、いまこそ唯に甘えて頼って欲しいと和は思う。もちろん和自身に頼ってくれても協力は惜しまないが、おそらく無理だろうなとも思う。
 憂の手はいつも姉にさしのべられている。そして、唯の手も。他の人間ではきっと駄目で、唯の手でようやく憂は安心するのだろう。

 和の話を聞いてようやく落ち着いた唯は、最後に思いっきり鼻をかんでスッキリした顔をあげた。そして安心したように言った。


「ありがとう和ちゃん!和ちゃんに相談してよかった」

「もしなにかあったら協力するから言ってね」

「うん! へへ、和ちゃんさすが頼りになるね」

「まったく…けど唯も大変ね、合宿だったりテストだったり憂ちゃんのことだったり」

「ほんとだよねぇー………へ?」


 突然唯の体が固まった。唯?と和が呼んでも反応はなく、少し考えたあと何かに気づいた和が恐る恐るその顔をのぞきこんだ。




「……前期の中間テスト…忘れて、た?…」

「……………は…ぃ……」




 唯の体が白い砂となってサラサラと外へ吹かれていく心理描写が見えるようで、その様子から当然テスト勉強などしているはずがない。
 もう乾いた笑いを口からこぼすしかない親友は、すでに暑さなど感じてはいないだろう。


 何から励ませばいいのやら…


 夏休みまでは二十日ほど、テストまでは十日を切っている。それが終われば夏休み。そう、夏休みである。


「ほら唯、テスト終われば夏休みじゃない。あんたやればできるコなんだからまだ間に合うかもよ」

「…のどかちゃん…」

「それに合宿あるんでしょ?赤点だと夏期講習に出なきゃならないはずだから…」

「はっ!!合宿!!よーし、今日からテスト勉強がんばるぞー!」


 合宿の言葉に生気を取り戻した唯は鼻息も荒々しく拳を振り上げた。まったく極端から極端に走るコである。けれどこれが我らの平沢唯であり、愛し愛されるコドモなのだ。

 ようやくやる気の出た唯に水を注さないよう励ますと、ちょうど次の授業の予鈴が鳴って。「あ、そういえば」と和は後ろの席に戻ろうとする唯を引き留めた。


「ねぇ、別荘ってどこかからレンタルするの?けっこうかかるんじゃない?」

「へ?レンタルなんてしないよ?ムギちゃん家の別荘を借りるんだ」

「へぇ、琴吹さんの家、別荘持ちなんだ。すごいわね」

「すごいよね、ムギちゃん。 …部活でもさ、お菓子もお茶も全部ムギちゃんが持って来てねっ、それがまた美味しくてさぁ…」






ーーーーーー
ーーーー






 昼の賑やかさとはうってかわって、黒板のカツカツした音と教師の教科書を読み上げる音のみが響く。「ここ、テストにでるぞー」という教師の声にメモをとりながら、和は胸に残る違和感の正体がわからずもやもやいていた。違和感の原因はもちろん唯である。



『すごいよね、ムギちゃん』



 と、最後に言って浮かべた笑顔。表情がひどくひっかかる。これまであんな顔見た覚えがなくて、一瞬唯が全く知らない他人のように見えた。
 この長い付き合いで、初めて見る顔。本当に初めてだろうかと考えて、やはりない。見たことがないと確信する。なんてことだ、これはどういうことなのだろう。

 なんでも唯のことなら何でも知っていると思っていたけど、どうやら違うみたいね。

 軽音部に入っていろいろな影響を受けて唯はどんどん成長していく。それは本人でさえ自覚していない、他人からの視点でしか見えないところが。


 あの表情…もしかして、いや…まさか、ねぇ


 和はなんとなく気づいた。その表情がなんたるものかを。そして、先程の唯の話を思い出す。





……言いたいことを黙っているみたいに


……やたらと一緒にいたがるんだ。


……苦しそうで。





 きっと憂も気づいたのではないだろうか。
 気づいてしまったのではないだろうか。
 姉さえ気づかないその変化に。
 一番近くで見ていたからこそわかる、微妙な変化。姉を想う度合いが大きいだけに、あの賢い憂が想いを隠せなくなくなるほどショックを受け、揺れている。だとしたら、だとしたら…



今回ばかりは今まで通りとはいかないかもしれないわね、お姉ちゃん。



 背中でわかる唯の気配。先程あんな宣言をしたはずなくせ、心地よい眠りの中に入っているのは仕方ないと言ってはいけないのだろうが。

(その後、テスト目前のある日。帰り道で会った唯が、きれいさっぱりすっかりすこっとテストの事を忘れていて、部の存続をかけた追試で泣くことを思えば。この時もっとしっかりと勉強に付き合えば良かったかと後悔したのは、まだ少し先の話しである)

 和は大切な親友が、大好きな姉妹が悲しい想いをすることがないようにと、ただただ祈るしかなかった。












ーーーその表情のその意味を口にするのが怖くて、そっと心に蓋をした。
いつか開けなければならないとわかっていても。








『波紋』END
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