novel


□今宵は月も笑う夜
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いつもと同じ様に、今日も何事もなく過ぎて行く筈だった。
見上げる夜空は深く碧く輝き、そこには爪の先のような細い三日月が薄く浮かぶ。
傍には明々と燃える薪の火。
それから何処か遠くで聞こえる梟の低い声。
何もかも、いつも通りだというのに。

「風邪ね」
横になったドールの前髪を掻き分けて額に手を当てると、マテリアはきっぱりとそう言った。
薄っぺらなキャンプセットの生地を通して伝わってくる地面のでこぼこな冷たさと、彼女のひやりとした掌の感触がやけに気持ちいい。
「…僕が?」
「そうよ。ほら、熱もあるしちゃんと寝てなさい」

起き上がりそうになるドールを諌めるように、額に乗せた掌で頭を撫でると、マテリアは荷物から地図を出して吟味し始めた。
「次の街までは…結構距離があるわね…今日はもう遅いから野宿しかないとして、明日は私がドールを背負っていけば何とかなるかしら」
半ば独り言のように、唸りながら地図と睨めっこするマテリアを、ドールはぼんやりと横目で眺めた。

確かに今日は調子が少しおかしい。
足取りはふわふわと雲の上を歩くように覚束なく、こうやって横になっていても上から押さえ付けられたかのように、身体が重く動かない。
その上おまけに頭もはっきりしない。

「マテリア」
「ん?」
ドールの呼ぶ声に、熱心に地図を見ていたマテリアが振り向いた。
彼女の前で言葉にしてしまうと、それが確定してしまう様な気がして、ドールは口に出すのを少し躊躇う。
「これって風邪、なのかな」
「どういうこと?」
「風邪というよりは…もう駄目な感じがするんだけど」

遠回しな表現に、マテリアは意味がわからないとでも言うように眉間に皺を寄せたが、やがて弾けたように笑い出した。
思わぬ反応にムッとして、ドールは眉を寄せる。
「…なんだよ」
「喉が腫れてるし、咳は出てるし、熱もあるでしょ?ほぼ、風邪で間違いないと思うわよ。心配しすぎだってば」

たまには可愛い事も言うのねぇとマテリアは微笑むと、ドールが被った布団をぽんぽんと叩く。
「大丈夫、ドールを死なせたりしないわよ」
「…魔法人形でも風邪引いたりするのかな」
弱気になって呟くと、現にここに居るじゃないとマテリアは明るく笑った。

「そういえば、ドールが体調崩すのなんて初めてね」
わたしもめったに病気にならないけどね、と付け加えてマテリアはくるくると地図を丸めた。
「こういうのさ…鬼の撹乱って言うんだっけ」
「自分で言ってる辺り重傷ね」
「…そうだね」
息を吐くように笑い、少し安堵する。
「お粥なら食べれる?」
「うん」

身体の具合が良くなった訳ではなかったが、心の奥でこびり付いていた不安は消えたようだった。
静かな闇夜に、ガシャンガシャンと似つかわしくない賑やかな音が聞こえてくる。
きっと、マテリアが料理をしている音だろう。
騒々しい、けれどもはや日常となった光景に、知らず知らず微笑むと、ドールは抗えなくなった眠気に意識を委ね、ゆっくりと目を閉じた。




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