人体民警 書庫(短編)

□ネオフォビア
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少女は、カゴの中から一輪の薔薇を選んで、「これでいい?」とでも言うかの様にこちらを見上げてきた。
軽く頷くと、ほっとしたような顔をする。

「…花、好きなのか」
「うん!だってきれいでしょ?」

そうだな、とどうでもいいような返事をしつつ、少女を造花の売り場までうながす。
店の窓からみえる空が少し暗くなってきた事が気になった。
どこから来たのかは知らないが、家まで送る羽目になるのも面倒だった。何より自分は今ミリツィアである事を証明する手立てがなく、送ったところで不審者扱いされてもおかしくない。

父親のフリをして、とか。
誘拐未遂、とか。

世知辛い世の中だよな、なんてひとりごちる。慣れていても、制服が無いだけでこうも扱いが変わるかね、と笑ってしまうほどに。

花を買うこと自体はそれほど難しくはなく、握りしめていたコインで想い通りのものが買えた安心感か、店を出る頃には少女は饒舌だった。

「ありがとう、きてくれて!お花屋さん、たのしかった!」
「…そうか、」
「お父さんはね、いつもお花飾るのが好きで、病院にいる時もいつも言ってたの、今日はおうちになんの花を飾ってるの?って」

病院、という言葉に胸の奥がチクリとしたが、何も気付かないふりをした。
ふいに言葉の間があいた事が気になって、ボリスが少女を見下ろすと。

こちらの顔を、じっと見つめてくる大きな瞳と目が合った。

「あなたは、どこからきたの?」

質問の意図がわからず返事をできずにいると、少女静かに続けた。

「おとうさんが、どこへ行ったか私は知ってる。あなたが、どこから来たのかも」
「え、」
「かみのみもと、からだよ」

一寸考え、納得して。
なんて返していいかわからずに、神を信じる者に久々に会ったと思いつつ。しかし母親が、そう云わざるを得なかったのかもしれない、と思って。
やはり言葉は、出てこなかった。

「これを、あげる」

少女は先程店先で、自分で選んだ一輪の薔薇をこちらへ差し出してきた。

「いや、これはお前のだろ」
「お母さんがいつも言うの。『思いがけないこうふく』は、まわりの人にわけあたえなさいって」
「…ずいぶん難しい事言う母さんだな」
「いみはわかんない。でも、お母さんのいいたいことはわかる」

少女は薔薇に鼻を近づけて香りを吸い込み、そしてそれが当たり前のようにそっとこちらの胸元へ差し出してくる。
反射的に受け取ってしまった。


「あなたに、こううんがありますように」


にこりと笑った少女は、こちらの返事を待たずにきびすを返して走り始めた。

「あ、おい」

少し暗くなり始めた道に街灯が点き、少女の小さな背中はあっとい間に小さくなっていった。
慌てて追いかけたけれどすでに姿はなく、幻だったのかとさえ思えてくる。
息をきらせながらあちこち見て回り、花屋の前に戻ってきたとき道の上にキラリと光るものがあった。

10ルーブル。

ボリスはそれをそっと拾い上げた。
少女が、確かにここにいた事の証明だった。

人は疑わずに何かを見つめる時、その瞬間だけは全能で居られるのかもしれない。
怖いものも、悲しい事も、何もかもが有るべくして有ると、思えたらどんなにいいだろう。


でも、出来ない。

どんなに覚悟をしても、失う事は怖いし、別れは悲しい。
人として命を与えられたのだから、人として死なねばならない事は承知の上で、それでも永遠を願ってしまう。

大人になる、ということは。上手く生きられるようになることじゃなくて。

命には終わりがあるという事を、肌で感じられるようになる事かもしれない。


なるほどね、というコプチェフの声で顔を上げると、薔薇の花の香りを嗅いでいる姿が目に入った。
これはいわゆる、親密な相手に対する『欲目』かもしれないが、腹が立つほど様になっている。

「ボリスにとっての幸運が、俺だったらいいんだけどな」

はぁ?と返したかったのに、真剣な目に絡め取られて何も言えなくなってしまった。

「俺にとっての幸運は、ボリスに出会えた事だよ」
「…キザったらしい事言ってんなよ」
「本気だけど」
「気持ちわり」
「…愛しい、とかそういう気持ちを、知らないまま死ぬ事になってたかも、って思うよ」

じっと見つめるコプチェフの目の中に、それまでとは違う熱が灯るのを感じて動揺した。

この男は。
思いがけないところで。

不意に伸ばされた手を避けきれず、頬に触れられる。コプチェフが動いた瞬間に、ふわりと薔薇の香りがした。
くすぐるように頬から耳に移動した手は、そのまま髪の中に差し入れられ、思いの外強く引き寄せられたボリスはよろめいた。

「お、い」

抗議の声も届かず。
腕の力とは比例しない、優しい触れ方の口付けだった。
何度か触れるだけの口付けをして、その隙間から漏れる呼吸だけでもう、彼の熱の度合いを計れてしまう。

ゆるりと入り込む舌に、思わず体が震えた。
逃げられないほど強く抱きとめられた腕の中で、もう慣れてしまってもおかしくないのに、まだ。

本来なら、こうであるはずのない自分と、こうであるはずのない彼の、選んだ道を思って。
戻れやしないし、離す気もないくせに。

歯列をなぞる舌を、口を開けて招き入れる。
コプチェフの首に腕を回し、しがみつくようにしてその口腔をむさぼった。

「…ふ、…ッ」

どうしようもない吐息が漏れて、まだ口付けだけなのに、体がその先を求めて先走る。
体を擦り付けるようにすると、コプチェフはそれにこたえて服の上から、柔らかく体を撫でてきた。

首、背中、腰。

尻を掴まれて思わず掠れた声が漏れる。腹の奥底がうずいて、鼻からは甘えるような吐息が漏れた。


「…かわいい、ボリス」
「んなわけ、…ッ」


与えられる快楽を知ってしまった体では、拒否できない。
今だってその事実を突きつけられたら、「男のくせに」とか「狂ってる」とか「そんなはずない」とか、様々な感情が渦巻くけれど。

呼吸を乱し身を捩り、甘ったるい声を上げながら、足先が痙攣するほど絶頂するなんて。
彼でなければあり得ない。

人は初めて出会ったものや自分の価値観に合わないものには恐怖心を抱く。拒否反応を起こし、どうにか排除しようと躍起になって、自分の知識を正しいと思い込む。

生まれ落ちた時は何ひとつ持っていなくて。
何も、知らなかったくせに。


あの少女は、父親の最期に立ち合ったのだろうか。
母親の言う「神の御許」に、納得できたのだろうか。

疑う事を知らないままのその眼が、曇ることのないようにと祈った。


「…愛、か」
「ん?」
「なんでもねぇ」


自分が先に、去らねばならないとするなら。
別れを、告げなければならないのなら。




どうか出来る限り悲しまずに。
どうか出来る限り傷つかずに。
どうか出来る限り日向を。

どうか。
どうか。


幸福で、在ってください。








2020.10.23
久々に書いたら、なんか二人も歳をとった感じになってしまいましたww


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