人体民警 書庫(短編)

□ネオフォビア
1ページ/2ページ


何でか、なんて分からない。
そこに居たから、としか言いようが無い。
色々な偶然が重なってそうなったのだが、その場に居なかった彼にとっては、そんな事知る由もないのだ。

体をキッチンに向けたまま、顔だけこちらを向いているコプチェフ。手に持った食材を見る限りでは、これから何を作ろうとしているのか判断できなかった。

「…どうしたの、それ」

驚いている、というよりはもう、病人を心配するかのような顔。
ボリスは何と答えようか迷い、自分に起きたことを説明しようと頭を逡巡させたが、名案は閃かなかった。

「あー、…、」

決まりが悪くて頭をかいた瞬間に、華やかな香りが鼻先をくすぐる。
薔薇の匂いだ。
どこから来た香りか、は簡単。

今自分の手には白いリボンのつけられた、赤い薔薇の花が一輪、ある。

どうしたらいいか分からないまま、約束していたここへ来てしまったのがいけなかったのか。
この状況にどう対応するか、考えてから来るべきだったのかもしれない。
とはいえ、もう後の祭りだ。

「…幸運がありますように」
「え、」

驚愕の顔でこちらを見ている彼の肩先に薔薇の花をポンとぶつけた。彼は慌ててそれを受け取り、まじまじと見比べている。

こちらの顔と、赤い薔薇を。

なんだかここまで来るともう、どうでもいいような気がしてきた。何でこうなったかなんて、説明が必要なのだろうか。
未だかつて、付き合っていた女にでさえ花など渡した事がない。これからもその予定はない。もちろん、恋人が男だという珍事を考慮した上で、だ。
まして薔薇の花など。
世の中の男達はどんな顔をしてこんなもの買いやがんだ、とボリスは心の中で悪態をついたが、決して薔薇の花が悪いのではない。
あからさまな愛情表現が苦手で、ベタな展開を薄ら寒いと思ってしまうのが自分、というだけで、人がどんな贈り物をしようと自由なのは分かっている。

ふとコプチェフを見れば、未だに眉間に皺を寄せたままこちらを凝視している。
なんだかムッとしてしまった。

「お前、さすがに失礼じゃねぇか」
「え?何が?」
「俺が花持って帰って来たからなんだっつーんだよ?天変地異みてぇな顔しやがって」
「いや天変地異でしょこれは」

コプチェフの顔は大真面目だ。
何に対して反論したらいいのか分からずに口ごもった。
まぁ確かにそうだ、自分で言うのもなんだが、これほどまでに花に違和感がある奴も珍しいだろう。
いっそ何かの罰ゲームだと言えば納得してもらえたかもしれない。

「俺が買うわけねぇだろ。もらったんだよ」
「もらった?薔薇の花を?誰に?なんで?」
「…るせぇなぁ」

矢継ぎ早に繰り出されるコプチェフからの質問に、若干尻すぼみになりつつも悪態をたれると、彼は相変わらず大真面目な顔でこんなことを言うのだ。

「あのね、いつもと違う事が起きる時ってのはさ、すんごい良い事か悪い事の始まり、って相場が決まってんの」
「…思いがけねぇ幸運は、周りの誰かに分け与えろってよ」
「え?何?怖いよホント」

コプチェフがのけぞったのを見て、うっかりため息が出てしまった。


たまたま、だ。

切らした酒を買いに昼下がりに駅前へ行くと、店の前に行列ができていた。不思議には思ったが並んでまで買うつもりもなく、引き返そうとした時に目の前に並んでいた子供が小銭をぶちまけた。
歳の頃は5〜6歳で、大きな目をした少女だった。周りを確認したが、親は居ないようだ。
あわてて小銭を拾う彼女を無視できず、落ちたコインを一緒に拾い、その小さな手の中に返してやる。

「…全部あるか?」
「ん…」
「…」
「…あ」
「あ?」
「10ルーブル無い…」

辺りをもう1度見回したけれど、それらしきものは見当たらない。少女も必死になって地面を睨んでいる。
そうこうしている間に並んだ列はじわじわと進み、もはや小銭をぶちまけた場所さえも怪しくなってしまった。
ボリスは少女が地面を睨んでいる間に、懐へ適当に突っ込んでいた小銭の中から10ルーブルを引っ張り出して、彼女の目の前に差し出した。

「ほらよ。あったぞ」
「…、」

彼女はグレーの大きな目を不安そうに泳がせた。上手くやったつもりだったが、「見つかった」のではないと気づかれてしまったようだ。

「…受け取れよ、無きゃ困るんだろ」
「…、」

彼女が何か言いかけた時、背後から声をかけられた。

「お父さん、もう少し前に詰めてもらえますか?」

お父さん?と聞き返す暇もなく、店員らしき男に軽く背中を押すような仕草をされ、条件反射で前へ詰めてしまった。

「…おとうさん、だって」

足元で小さな笑い声がもれる。
そこでようやっと、何が起きたのかを理解した。
同時にもうひとつ、おかしな事に気付いた。ここが酒屋の列なら、保護者なしでここに並んでいるこの子供の説明がつかない。

「…おい、お前ひとりか?」
「うん」
「悪ィが子供ひとりで酒は買えねぇぞ」
「さけ?」

きょとんとした顔でこちらを見上げた大きな目が、不思議そうにこちらを見上げている。

「お花買いに来たの」
「花?」
「お花屋さんに行く人がならんでるんだよ」

思わず「は?」と声がでた。
背伸びをして前方を伺うと、列の先は酒屋の横にある花屋へ向かっていた。出入口に置かれた祝の品を見る限り、どうやら今日開店した店らしい。

そういうことか、とボリスはひとりごちてから、やっと納得出来たことに安堵した。
改めて、少女の小さな手に10ルーブルをねじこむ。

「なんだか知らねぇが、金が無きゃ買えねぇ。お使いにでもきたんだろ?」

聡明な目をした少女は、少し不安そうにこちらを見上げた。
子供の頃にお使いをした記憶などないが、ひとりで買い物をするという事は、この歳くらいの子供にとっては大変なミッションなのだろう。
ボリスが迷っていると、少女はポケットの中から小さな紙切れを取り出した。覗き込むと、繊細な字でこう書かれている。

赤いカーネーションの造花 2本

ピンときた。
偶数の花。
赤いカーネーション。

「…誰の為なんだ」
「お父さん」
「…そうか」

ボリスは、少女の小さな手に握られたその紙切れを、ポケットにしまうよう促した。

「…お母さんね、仕事が忙しいんだって。でも今日はお父さんのところに行くから、絶対にお花が必要だって」
「それでひとりで、」
「うん」

大人はいつも、子供に悟られないように色々な事を隠しながら生きている。
良い事も悪い事も、いつかは必ず向き合う日が来るとわかっていて、けれど後者へは特に、可能な限り大きくなってからぶつかって欲しい、と願って。
けれどどうだ、目の前のこの子供は恐らく、全てを理解している。大人が隠そうとした現実を、隠そうとした事実ごと。

守られているのは大人の方かもしれない、と思った。
切り裂かれて出来た傷を手で隠して笑って、本当は目を逸らしたいのは大人の方。
子供だって、泣きわめきながらもきっと分かっている。

どうにもならない事。
耐える事しかできない悲しみが、この世界にはある事。

ふと、いつか来る別れを思った。

どんな形かはわからない。人の心は不安定で、今ここにあるものがこの先もあるとは限らない。
「想い」の類は特に、永遠と勘違いしやすいものだから。
必ず来る別れを避ける方法などないけれど、自分たちを分かつ物があるのなら、せめて。
それが、命の終わりであるようにと。

悲しみと喜びの間のような想いが巡った。


「…まぁ、…近くに立ってるくらいなら」
「うん」

少女は笑うでも喜ぶでもなく、真剣な面持ちで頷いた。

列はのろのろと進み、やっとの事で店に入ると、入口に立っていた店員が大袈裟にベルを鳴らした。

「おめでとうございます!」

ボリスはギョッとして店員の顔を見たが、単に驚いて入ると思ったのだろう、景気のいい笑顔でこんなことを言ってきた。

「本日、開店から100人目のお客様です!お好きな花をお選びください!」

後ろに控えていた女性店員が差し出してきたカゴの中には、様々な色の生花が一輪ずつ包装され、ところ狭しと詰められていた。
思わず足元にいる少女を見ると、案の定固まっている。

「…お前が選べよ、お前の為に来たんだから」

背中をポンと押すと弾かれたようにこちらを見上げてきた。なんとも言えない緊張した顔だった。





次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ