人体民警 書庫(短編)

ありがとう、おやすみ
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弾薬の尻に彫られた7.62mm×54R、という文字。

当たり前な話、それが自分の元を離れる時、彫られた文字が見えるわけではない。
それでも10発のそれが入った弾倉をセットする時にはいつも思うのだ。


死ぬまでこの文字を、忘れない。



手にしたドラグノフの重さより、掌にかいた冷たい汗より、引鉄を握りしめた瞬間の衝撃より。もっともっと、現実的な事。

公称上の最大有効射程は800メートルでありながら、実際それだけ離れた状態で目標を撃ち落とした経験は無い。せいぜい400メートルがいい所だ。市街での即射性を優先されているその造りではやはり、有効射程なんて上乗せされ過ぎている。

幸か不幸か、スコープの向こう側に見える標的が「生きた人間」という感覚はほとんど無い。一枚のレンズを通しただけで、何故ここまで世界が変わってしまうのか不思議なくらいだった。
例えばテレビの向こうにある世界だったり、誰かに聞いた話だったり。そういう非現実とは違い、レンズの向こうにある世界は確かに、確実に今現実としてそこに存在しているにも関わらず。
その狭い世界を覗きこんだ瞬間に、向こう側に見える景色はどこか、遠くの世界の話になってしまう。
自分の手が誰かの命を奪うという現実は、悲しい事に実感としてはほとんど無いのだ。

それなのにどうだ、装弾する為に弾を手にした時の自分の心からは、言葉にできない不快感が噴出する。

実感するのだ。

自分が引鉄を引いた時、この弾がその人間の急所を貫き、命を奪っていくのだ、と。

撃ち落とされた相手の体には、この弾の痕が残る。
それは自分が握りしめる引鉄の感触よりもリアルに、死というものを自分の前へ突き付けてくる。

決して、消えない咎として。




弾薬の尻に彫られた7.62mm×54R、という文字。




それが目標の体を通り抜けた時自分は。


「正義」という皮を着た、犯罪者になる。











カタリ、という物音でボリスは、頭の上にあった時計を見た。
午前1時38分。
一瞬頭の中に迷いが生じた。寝たふりを決め込もうか、「今仕事上がったのか」と声をかけようか。

コプチェフは基本的に、仕事の上がりがどんなに遅くてもこの部屋へ来る。
いつもは大抵リビングでそれを迎え入れるので、「待っててくれたの?」「そんなわけねぇだろ」という会話があるのだけれど。
今日はなんとなく、座っている事さえも億劫だった。


狙撃の任務がある日、ドライバーがコプチェフとは限らない。
特に、標的がほとんど移動しない相手の場合、前日からその場所で待機する事もあるわけで、そうなるとコプチェフは他の仕事へまわされたり、内勤になったりするのだ。
例えば相手が、あの脱獄囚のような逃亡犯だった場合は、彼のような優秀なドライバーが必要になるわけだけれど。あれはあれで、かなり特殊なケースで。
ほとんどは張り込みの後、指定された場所での狙撃となる。終わればすぐに目立たない場所で待機。狙撃が行われた後の現場は慌ただしくなり、下手に動くと騒ぎになる。
後は指示を受けて、覆面パトが居る場所まで移動し、現場を離れ、任務終了。
もちろん、その覆面パトをコプチェフが転がす場合もあるけれど、彼はどちらかと言えば運転技術を必要とされる現場で重宝されており、高速でのカーチェイスばりな逃走劇への出動を、交通警備隊から要請される事が何度もあった。

いつか自分達の配属先は、完全に別々の物になるのだろうな、とボリスは思う。

歳を重ねるごとに、自分達はそれなりに成長を遂げて。署の中でもそれなりの地位へ、少しずつ上がっていくわけで。それを悲しいとか、不安だなんて思わない。
けれどこんな夜にはどうしても、頭を過るのだ。

自分がそうなる頃には、あの弾が。
一体何人の命を食いつぶしているのだろう、と。





寝室の扉が、ゆっくりと開く。

そこに居る彼が小さな声で、「ボリス」と声をかけてきた。
横向きに寝転がっているせいで、左耳は枕で塞がれている。右耳で聞いたコプチェフの微かな声は何だか、とても長い間聞いていなかったような気がする程に温かく、甘い。
起き上がろうか、一瞬迷う。
けれど部屋の中に籠った重い空気に負けて、横向きのままベッドの上で寝たふりを決め込んだ。

コプチェフは絶対に眠りを妨げるような行動に出る事は無い、という事実を経験上、ボリスは知っている。慢性的な不眠を抱える自分が珍しく眠りについているとなれば彼は。

ただ足音を忍ばせて、そっと近づいて。
髪を撫でて頬に触れ、「おやすみ」と言って。
そうしてそっと、部屋を後にしていく。

どうしようも無い夜に、ボリスはそうやって寝たふりをした事が何度もあった。

次の日になって「昨日はよく眠ってたよ」とか、「おでこにキスしたけど起きなかった」とか。「寝顔、可愛いかったよ」とか。
呆れを通り越していっそバカバカしいような言葉を吐くコプチェフが。
軽い言葉を使いながらも、本当は自分の体調を酷く心配しているのだという事に、気づいては居るのだ。

だからこんな夜は、尚更。
寝たふりをするのが、一番いいはずで。

彼の体温が、この世で一番安心できる物である、という自覚はある。けれど自分自身の力で乗り越えなくてはならない事というのは、そういった甘えを完全に排除した場所へ置いておきたいのだ。

コプチェフを想う気持ちと、強く有りたいと思う気持ち。

それは全く別の種類の物で、混同する事は自分の生き方そのものを変えてしまうという事に繋がる。生きていく方法が歳と共に変わる事は否めないけれど、それでも。

自分の足で、立って居たいのだ。
彼に誇れるだけの、強い自分で居たい。

じっとただ寝たふりをしていたボリスの元へ、普段通りコプチェフが近づいてきた。嗅ぎ慣れたトロイカの匂いに混じって何故だか、石鹸の香り。それはつまり、仕事を終えて一度部屋へ戻ったという事だ。
ボリスはそれを不思議に思いながら、けれど今更起きている事を言えるわけもなく、その疑問を飲みこんでただ、コプチェフが去るのを待った。

彼の手はそっと、いつものように髪を撫でてくる。大きくて温かく、優しい手。
その手に触れられながらボリスは、ただ漠然と「自分はこれで良いのだ」と思った。
狙撃の任務を終える度にこうやって、心の底に沈殿していく何か説明できない感情を。誤魔化さずに生きていかなければならない。

正義の名の下に命を奪うという、どこか傲慢なこの右手。






目を、逸らさない

それが
俺に出来る

唯一の

懺悔






失われてしまった命に、今更祈りを捧げたところで何の足しにもならない事など、自分が一番良く分かっている。それこそ冥福を祈る事さえ、ただの綺麗事なのだから。
どんな理由があろうとも、自分は人を殺しているのだ。
この世には失われても良い命など、ひとつだって存在しない。生きていく事自体に理由など無いのだから、他人の手で止める事など、例え神にだって、許されない事だ。

その罪に沈みながら。
溺れながら、それでも。

かろうじて息をして、それを背負って。
自分は、生きなくてはならない。









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