人体民警 書庫(短編)

まるで、パブロフの犬
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大きな口を開け、皿の上のローストビーフを口に捻じ込む。
大量にかけたデミグラスソースがその拍子に、唇の端からポタリと垂れた。豪快を通り越して、半ば乱雑に近い食事の風景。

いつ見ても、良い食べっぷり。

コプチェフは彼の向かい側でトロイカを燻らせつつ、ぼんやりとそれを眺めた。
大量に摂取されたこの栄養素は一体、ボリスの体のどこへ使われるんだろう、なんて生物学的な疑問を感じる。それと同時に、もっと小さく切れば食べやすいんじゃないの?という言葉が喉まで出かかるのだけれど、基本的に面倒な事が嫌いな彼はきっと、「食えてんだから問題ねぇだろ」とか何とか、言うのだろう。
ナイフとフォークの使い方が美しいだけに、少し勿体ないような気もする。

目の前の席に座った彼は、唇の端についたソースを舌で拭った。

そんな日常的な動作に、今でも目が奪われて逸らせなくなる事がある。条件反射的に吸い寄せられ、飲み込まれるようについ、見つめてしまうのだ。
当の彼は気づかない。
意識を逸らすように、トロイカを思い切り吸い込んだ。

手に持っていた銀製のナイフとフォークを皿の上に揃えて置き、口の中のそれをゴクリと飲み下してから、ボリスは言った。

「ごっそさん」

何故だか彼はそう言う時、必ず視線を合わせてくる。子供の頃にそう躾けられたのだろうか、と思いながらコプチェフは「はい、お粗末様」と答え、トロイカを灰皿に押し付けた。
ボリスが仕事を終えてここへ来たのは、午後8時過ぎ。
特別約束をしていたわけでもないのだけれど、彼がここへ来る事を予想して二人分の夕食を作った。
ローストビーフとマッシュポテト、サラダにコンソメスープとクロワッサン。
コプチェフは、彼の「腹減って死ぬ」という第一声まで予想通りだった事を思い出して、思わず笑う。

「…何笑ってんだよ、気色悪ィ奴だな」

ボリスが仏頂面でぼやいた。

「ん、別に何でも」

コプチェフがそう答えると、ボリスは片眉を持ち上げて少しだけ不思議そうな顔をしながら、こちらを見ていた。
恋人の口から、なかなか甘い言葉が出てこない事は多少残念には思うけれど、それでも彼の口調は昔に比べれば、大分柔らかくなった。
きっと、自分にしか分からない変化なのだろうけれど。

二人分の料理。
二人分の食器。

それさえも幸福の在処になるなんて、俺も相当落ち着いたもんだね、と呆れてみる。昔はそんな光景と幸福が、イコールで繋がるなんて知らなかった。

椅子から立ち上がったボリスに「足りた?」と声をかけると、彼は「ん、」と手短に答える。

まるで満腹になって満足した猫のよう。
目を細め、ボリスは大きく伸びをした。その拍子に着ているシャツが少し持ち上がり、制服の迷彩柄との間にある臍が顔を出す。



たったそれだけの事で。

重ねた肌を、思い出して。



コプチェフは目を逸らし、椅子から立ち上がってボリスの使った食器を下げた後、それと向き合いながら「俺こんなに性欲あったっけ?」と真剣に悩んだ。
とにかく冷静になる為にも食器を洗おう、とスポンジを手にし、洗剤を垂らした所でボリスの声が飛んで来た。

「お前これ、見た?」

振り返ると、逆側を向いたソファに座った状態で、背もたれ部分に顎を乗せ、右手でヒラヒラと紙を振ってみせる彼の姿。
少しだけ険呑なその目を見ていたら、「今日もシていいの?3日連続だけど」と無関係な言葉が頭を過った。
おかしな言葉が出ないように、慌てて返答する。

「これ、って?それ何?」
「我が国の死因ダントツトップ、「過剰飲酒についての対策」…だってよ」
「何それ。そんなの配られたっけ」
「知らね。机ん上に乗ってた」

そういえば冬は特に、酔っ払って外で凍死とか、中毒死とか、多いんだよなぁ、と思いながら。手は既に泡だらけだったので、「ちょっと読み上げてよ」とボリスに頼んでみる。

「は?自分で読めよ」

案の定、拒否された。けれどそれは想定内。

「だって俺、手ぇ泡まみれだし」
「後で読みゃいいだろうが」
「あー…ボリス活字苦手なんだ?じゃあ、いいや」

何でそうなるんだよ、と大きな声で威嚇してくるボリスから視線を外し、背を向ける。全くどうしてこんなおかしな所で扱い易いんだか、とコプチェフは苦笑いした。

「活字に拒否反応起こすのはお前だろ」
「そうだよ、だから頼んでるんでしょ。けどまぁ、苦手なら無理しなくていいよ、恥かくだけだもんね」
「馬鹿にしてんのかテメェ」

背中を向けたまま会話しているのに、ボリスからビシビシと鋭い視線が飛んでくるのが分かる。必死で笑いをこらえながら何も言わずに居ると、彼はとうとう読み上げ始めた。

「我が国における過剰飲酒が問題になっている」
「あれ、読んでくれんの?」
「…15歳から54歳の男性における死因の半数以上がそれである」

腹を立てたのか、振り返ると彼もこちらに背を向けていて。返事さえもしないまま、手に持った紙の内容をぶっきらぼうな声で読み上げた。

「我が国全土の死亡率は、大きな変動のほとんどが飲酒習慣の急激な変化によるもので、西洋諸国と我が国の死亡率の差は、煙草と過剰飲酒によるものである」

コプチェフはそっとタオルで手を拭いて、足音を立てないようにボリスに近づいた。

「国家統計局によると、アルコール中毒症状による…うおッ」

後ろから突然抱きすくめられ、驚いたボリスは妙な声を上げて勢いよく振り返った。
顔と顔がもう、5センチ以下の距離。唇がすぐ傍にあるけれど、そこには触れずに問いかける。

「ボリス、それ最後まで読み上げる自信ある?」
「どういう意味だそれ」
「無理?」
「は?意味がわかんねぇ」
「出来るか無理か言ってよ」
「出来るに決まってんだろ、そんくらい」
「じゃあ読んで」

抱き付いたままで居ると、ボリスは少し首を傾げ、眉をしかめてから先程の続きを読み始めた。

「アルコール中毒症状による同国の死者は、年間2万5000〜4万人、自殺約、4ま、んに…ちょ、オイ」

手を肩から胸元へ滑らせて、シャツの裾から手を入れる。ボリスは過剰に反応し、少しくすぐったそうに身を捩った。

「何してんだクソったれ」
「あれ、途中で投げ出しちゃうんだ」
「は?」
「出来るって言ったくせに」
「お前が邪魔してんだろうが」

ムっとした顔をするボリスが可笑しかったけれど、笑っているのがバレないように首筋に顔を埋めた。シャツの中に入れた右手で左の脇腹を探って、その上にある小さな乳首を摘む。ボリスが小さく息を飲んだ。

「…ッ、」
「出来るって、言ったよね?」

確認するようにもう一度言うと、一度舌打ちしてからボリスは右手にあった紙を持ち上げて再び読み上げ始めた。

「交通事故、…同左、…などと並び、…病気をのぞ、く主な死因のひとつ。アルコール、が絡んだ自殺、事故も、…多い」

捩じるように乳首を刺激する度、ボリスの声が途切れる。
今度は右の乳首を左手で刺激すると、「いい加減にしろ」と怒ったような声が飛んできた。

「読めねぇだろうが、」
「何で?」
「何でって何だよ」
「変な声出ちゃう?」
「…、」

青筋が立ってないのが不思議なくらいの表情をしたボリスは、何かとんでもない罵声を浴びせかけてきそうだった。それを遮るようにして先に言葉を吐く。

「だから、読めないならいいんだよ、やめても」

からかわれている事には気づいているのだろうか、とコプチェフは頭の隅で考えていた。負けず嫌いもここまで来ると、ある意味尊敬に値してしまう。
捲くられたシャツを左手で下しながら、ボリスは紙を睨みつけるように凝視しつつ早口で読み始めた。

「現在、幼児を含め1人当たりの年間純アルコール消費量は18リットルであるが、政府はこれを5年後までに5〜8リットルまでに下げる目標…」

さらさらと読み進めていた声が止まる。

ミリツィアのマークが入った、ファスナーの上にあるタックボタンを外したせいだ。ゆっくりとファスナーを下していくと、ボリスは固まったまま顔だけをこちらへ向け、目を丸くしている。

何だかその表情がやたら、可愛いかった。

「…もう無理?」

声をかけると我に返ったような顔でボリスは答える。

「お前、俺に何をさせたいわけ?」
「別に。俺はそれを読み上げて欲しいだけだけど?続き読んでよ、目標をどうしたって?」
「…目標を、掲げている。政府としては差し当たりの対策として、ウォッカ0.5リットル当たりの価格を89ルーブル以上と、…する、事を決め、…た」

紺のボクサー越しに、彼の欲望に触れる。尻すぼみになるボリスの声がやたらとリアルに耳へ迫る。まだ勃ち上がっていない彼自身を緩やかに擦りながら、耳元で囁く。

「読んで、ボリス」
「何、だよこの展開」
「いいから読んでよ…ね?お願い」

優しくそう言って耳たぶを舐め上げるとボリスの体がビクリと震えた。同時に手の中の彼が、少し硬くなる。
抵抗する事なんて簡単なはずなのに、それをしないのは。単なる負けず嫌いな性格から来るものなのか、触れられた部分に欲望が灯ったからなのか。もしかしたら、お願いを聞いてくれたのかも、なんて。

「だが、税収の増加も見込んだこの政策が、…どの程度、の効果を発揮する、か、は…未知数である。各地小売店、…、を、…、…ん、ッ、ん」

鼻にかかった甘い吐息。歯を食いしばっているせいで、声は途切れる。
少し強く磨り上げれば、彼は手の中で震え、完全に硬くなって勃ち上がった。
今どれだけ自分がいやらしい状態で居るかなんて、きっと彼は全く自覚が無いに決まっている。



本当は今すぐにでも
その体に押し入って

突き上げて
めちゃくちゃに

…乱してやりたい









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