人体民警 書庫(短編)

ハチミツ
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物音でふと、目が覚めた。


半分ぼんやりとした意識の中、無意識で右側のスペースに手をのばす。いつもならその手は、自分よりも低い体温の愛しい体に届くはずなのだけれど。
何故だか、そこに彼の姿は無い。
眠りに引き戻されてしまいそうな思考の中でコプチェフは、ボリスが俺より早く起きるなんて珍しい、と思っていた。

寝起きはスッキリと目覚める方であるコプチェフは、よっぽどの事が無い限り寝過ごすという事は無い。もはや起床時間が体内にインプットされているらしく、休日でも同じ時間に必ず目が覚めるのだ。今朝それが無かったのはおそらく、かなり疲労していたせいだろう。



大雪が続いたこの10日間、パトロールの最中に交通事故を起こす後輩が多く、自分はその対処に追われていた。
上司はもとより後輩が使うラーダカスタムの点検を手伝う事もあったし、さほど専門的でなければ署のドッグでラーダの修理をする事さえあった。
いくらギリギリでまだ二十代とはいえ、早朝から夜中まで肉体労働が続いては、さすがにガタがくる。
おまけにその忙しさ故、1分でも良いから傍に居たい恋人とは会話すらままならず。当たり前な話、急遽署へ缶詰状態になってしまった自分とボリスは別行動だった。彼は他の人間とコンビを組んでパトロールへ出ていたのだ。

いつもならボリスの性格上、別の人間と組まされる事は滅多にない。大体は事務所での内勤となる。しかし、この日はとんでもなく人手が足りず、狙撃だけに止まらず揉め事や事件を捌く腕も信頼されている彼が、出動しないわけがなかった。
声を聞けないどころか姿も見られないなんて、一体何の試練なんだよ、とぼやきたくなるのも仕方がない。
しかもこの日、パトロールへ出る直前のボリスとたまたま、誰も居ない廊下でバッタリと会った時。コプチェフが「10秒でいいから抱き締めさせて」と頼み込んだ所。

「ふざけんな」とあっさり断られた。

分かっては居た。分かっては居たのだ。公私混同はやはり良くない。仕事に支障をきたす場合も多いからだ。特に自分たちのような、複雑な関係であれば尚更。
けれど肉体的にも精神的にも疲労していた自分にとって、その10秒はとてつもなく貴重だったわけで。
あからさまにガッカリした顔をしたせいだろう、彼はしばらくしかめっ面を崩さなかったが、やがてこちらに顔を近づけ、耳元でこう言った。



あと3日我慢したら、くれてやる。



そしてボリスは、フンと鼻で笑って背を向け、ヒラヒラと手を振りながら歩き出した。

思わず、彼の尻に目が行った辺り。自分も現金と言うか何と言うか。

3日後には、休日が控えていた。10日連勤の末の、休日。
彼のたった一言で、それから先の3日間愚痴一つ零さずに仕事に励んだ自分が、いっそ可愛らしい。





一通りの事を思い出した後、コプチェフは欠伸をしてから大きく伸びをし、目を擦りながら体を起こした。改めて右隣を見て、やはり愛しい恋人の姿が無い事を確認する。
まさかベッドから落ちてるなんて事は、と思って向こう側を覗き込んでみたりしたけれど、そこには昨夜脱ぎ捨てたスウェットが乱雑に散らばっているだけで、当たり前な話彼の姿は無かった。
脱ぎ散らかしたスウェットは、自分と彼の物が上下2枚ずつ。…のはずなのだが、彼の物であるそれの下だけが無い辺り、きっとそれを履いてこの部屋を出たのだろう、と思う。
何の気無しに、目の先にあった時計を見た。

午前10時過ぎ。

休日とはいえ、こんな時間まで眠っていた事なんてそうそう無い。カーテンが閉じたままなせいで日光の入らないこの部屋は、薄暗かった。
何だかその薄暗さに卑猥な空気を感じるのは、昨夜の彼との行為を思い出したせいだろうか。


3日我慢したらくれてやるって、言ったよね?と。

仕事上がりにそのまま部屋へ来た自分を、風呂上がりのボリスは当然のように迎え入れ。その時、自分は間髪入れずにそう言った。
彼は一瞬驚いたような顔をして。

そんなに俺が欲しいかよ、と。
欲望で滲む笑みを見せて。

止まらなくてそのまま。


石鹸の匂いがする彼を、抱いた。



風呂から上がった後、ベッドで眠っているボリスを起こし、彼を2度目の風呂に促してから、自分は冷蔵庫の中のピザを焼いた。彼の好きなチェリーウォッカを取り出して、冷やさずにテーブルへ置く。
彼はウォッカを、常温で飲む事を好むからだ。

風呂から出てきた彼と、ウォッカを片手にそれを食べ。仕事についての真剣な話や、下らない笑い話をして。からかい合って。


眠ろうかとベッドで抱き合った時、自分でも呆れるほど、どうしても。
もう一度、欲しくて。

抗議の声を聞きながらまた、彼を。




あの時のままの空気がここにあるのだと思うと、何だかそれだけで妙な気持ちになるのだから、自分も末期だ。言葉にならない、胸が潰れそうな程甘い想いが過る。

それにしても、とコプチェフは思った。

大体の場合彼はベッドから出たがらず、最後までシーツにへばりついている。寝付きが悪く、その上眠りが浅いせいもあってか、ボリスは寝起きが最悪だ。
その彼が自分から起きるというのはどうにも、不自然ですらある。

ボクサー一枚の姿でしばらくぼんやりしていると、荒っぽい音を立てて扉が開いた。

「…起きたのか」

さして驚きもしないような顔でそう声をかけてきたボリスは、やはりスウェットの下だけを履き、上半身は裸だった。
ちょうど胸の辺りで、鎖にぶら下がった指輪が揺れる。アクセサリーを付けた事の無い彼が、初めてつけたそれ。

自分と同じ、指輪。

揺れた銀色の光も愛おしいけれど、彼の左乳首の下辺りに、昨日自分がつけた跡が赤く咲いていて。

説明できないおかしな気持ちになる。


「…それ、わざと?」
「あ?」
「俺を煽ってんの?」
「お前意味わかんねぇ」


呆れた顔をして、ボリスは部屋の扉を後ろ手に閉じる。
その右手にはトレイがあり、コプチェフは目を疑った。
ゆっくり近づいてきたボリスはトレイをベッドの上に置き、それを挟んでコプチェフの隣りに座る。

トレイの上には、ロシアンティーとコーヒー。ハチミツがかかった厚みのあるトースト3枚。ケチャップのかかったスクランブルエッグ。多分卵3つ分。ナイフとフォーク、スプーン。

思わず「え?」という声が漏れた。ボリスが怪訝そうにこちらを見る。

「…なんだよ」
「何これ」
「何って、飯だろ」
「…いやそうじゃなくて…ボリスが?」
「お前、俺がまるっきり何も出来ねぇと思ってんの?」

眉間に皺を寄せた彼は、あぐらをかいてトレイの上のコーヒーを手に取った。それにふぅ、と息を吹きかけてからチラリとこちらを見やり、「食えよ」と言う。

何だかもう、言葉が出ない。いやちょっと待って、何なのこの展開?と。
眩暈がする。
この甘ったるい気分はハチミツの匂いがするせいじゃない。

仏頂面でコーヒーを口にしていたボリスが、突然スプーンを掴んでスクランブルエッグにそれを突きさした。かなり大量にすくって、それを口に運ぶ。いつも思うけれど、奪うような食べ方だよなぁ、とコプチェフは口の中で呟いた。

ガツガツと何度かスプーンでそれを運んで。
彼は視線に気づいたのかこちらを見た。


「…何黙って見てやがんだ」


目を逸らしてからボリスは片手で持っていたコーヒーを置き、ナイフとフォークでトーストを切り分けた。その動きが流れるように綺麗で、ボリスの手って繊細に動くんだなぁ、と思う。
切り分けた、ハチミツたっぷりのそれを自分の口に持っていきかけて。

ボリスはふと、思いだしたように「ん、」とフォークをこちらへ突き出してきた。

口を開けると、そっと押しこまれるトースト。
香ばしい匂い。
甘いハチミツ。





いや
ハチミツが、
というか


ボリスの


この行動が
甘ったるい





トーストを飲み込み、フォークを持っていたボリスの手を掴んでそっと引き寄せる。彼は抵抗しなかった。

トレイを間に挟んで、触れるだけのキスをする。

温い彼の唇は、ケチャップの味がした。


「…もしかしてさ、俺が疲れてたから?」


コプチェフは目の前のボリスに問いかけた。彼はフンと鼻で笑って答える。

「自惚れんなっつの。俺がここで食いたかっただけだ」

素直じゃない、と思う。

未だかつてベッドで朝食をとるボリスなんて見た事が無いし、それ以前に彼は朝食をとらないタイプだ。
あまりしつこく言うと怒りだしてしまうので、コプチェフはもう一度目の前の唇を甘く噛んでから言った。

「俺達、新婚さんだもんね」
「気色悪ィ事言ってんじゃねぇよ」
「体、痛くない?」
「…、…別に」

突然その話題を出された事に驚いたのか、バツが悪そうに視線を逸らすボリス。怒ったような顔はもちろん、照れ隠し。

「…ほんと可愛いね、ボリス」

呆れた顔でこちらを見た彼の目が、鋭い。鋭いのに甘い。


「お前ほんと意味わか…、…ン、む」


可愛くない事を言う唇を塞ぐと、ボリスが微かに唸った。





今日はもう、絶対ここから動かない、と。コプチェフは思った。


朝も昼も夜も。
彼が根を上げるまで。
何度でも。

ふたり甘く、溶けていたい。




「ン、…コプ、ちぇ、」





とろけるような彼の声と。
喉が渇くほどに濃密な、甘いハチミツの香りに。



飲み込まれて、溶ける。














2009.12.29
甘めを目指しましたが…うーん??もちろん、長編A後ですよ

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