人体民警 書庫(短編)

彼は視線でそれを囁く
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あとは眠るだけ、という時分。

気になった事を調べようと、ボリスは本棚に手を伸ばした。そこまでは良かったのだが、そこに不自然なスペースが空いているのを発見して、固まる。

「…あ?」

手を伸ばした先の、不自然に開いたスペース。本一冊分。しかも割と厚い。
以前この部屋へ来た彼が、「これ頂戴」と言って持ち帰ったアルバムが収まっていたスペースは、もう別の物で埋まっている。

ボリスは手を伸ばしたままの恰好で、しばらく考え込んだ。そこに何があったのかを思い出そうとして、けれど思い出せず。
特に問題があるわけでもなかったので、行き場を失っていた手をそのまま持ち上げ、目的の冊子を手に取った。
狙撃手の訓練を受ける際に買った教本。

風の計算と距離、それに加えて、湿度・温度・地球の自転・弾頭重量等の計算。実際の訓練に入るまでにはかなりの時間、頭に知識を詰め込まなければならなかった。
そういった授業は学生時代に終わった物と思いこんでいたボリスにとって、完全に裏切られたような形だったわけで。
しばらくの間かなり機嫌が悪かった事を覚えている。

教官であったラクトフの目に止まった数人が、彼の下でその教育を受けたわけだが。最初は10人余いたはずの狙撃手候補は、ボリスが気づいた時には8人に減っていた。
ようやく知識の詰め込みが終わったと思えば、それと並行して行われていた体力作りが更に激化し、それが始まって一週間後の時点で2人が脱落した。
腕立て、腹筋、懸垂。それぞれ200組と、10キロ走り込み。それを1日6セット。じりじりと数を増やしながら、それが一ヶ月続いた。雨だろうが嵐だろうが、全く関係なしに、だ。
正直に言うと、その無意味とも思える「体力作り」には本気でうんざりした。うんざりを通り越して、いっその事教官をぶち殺してミリツィアから飛び出して行きたい、と思うほどに過酷だった。
ようやくドラグノフを手にできたかと思えば、銃の先にぶら下がった重さ3キロの砂袋にひたすら耐えながら銃を構え続ける、という地獄が待っていて。
最初はたった3キロ、といきまいてはいるけれど、ものの数十分で脂汗が流れる。肩や腕が痙攣し、自分の腕とは思えないほど自由が利かなくなる。泣きたくなるくらいに辛い。
それが終わって上半身がガタガタの状態のまま、200メートルを全力疾走した後すぐにドラグノフを構え、目的を射撃。
腕が震え、息は乱れて、じっとしている事さえできないというのに。当時の自分には、出来るわけがない、と笑いさえ漏れるような命令だった。
それが毎日。

本気で辞退を考えた。

ここまでしなきゃなんねぇのか、と何度思った事だろう。
それでも自分が諦めなかったのは、元来持ち合わせている反骨精神、というよりは負けず嫌いと言った方が正しいかもしれないが、それのおかげだろう。この性格が才能の内に含まれるのであれば、ラッキーだったとしか言いようが無い。
そうしている間に、更に2人が脱落。ボリスを含む残り4人が、その後の狙撃訓練へと進んだ。
ラクトフへ、幾度も「クソ教官」だの「鬼畜ジジイ」だのと罵声を吐いては頭をしばかれ、最終的にはそんな罵声さえも出なくなるほどに疲れ果て、それでも歯を食いしばって耐え続けた自分。
脱落しなかった事は本当に、我ながら立派だった。

しかし今思えば、体を鍛えていたというよりも、精神面を鍛えていたのだろう。場合によっては一日に数百発の弾丸を撃ち、肩の肉が擦り切れる時だってある。目標が常に一人とは限らないからだ。
狙撃手は普通の人には耐えがたいような、心理的なプレッシャーを受け続ける。それ故に、精神的な訓練も非常に厳しいのだ。


銃を構え、狙いを定め、射撃する、という動作は、今でも必ず毎日行う。
朝の時点で射撃場の空き時間を確認し、自分の都合でその訓練を行うのだ。ボリスは大抵、パトロールから戻った午後5時頃に入る事が多い。
パトロールが終わったその足で射撃場へ向かう時、ごく稀に彼もついてくる事がある。
彼、というのはつまり、相棒であり「そういう」関係であるコプチェフの事だ。
見学に来た時の彼は、訓練の邪魔をするのは悪いと思っているのか、ある程度の距離を置いてこちらを眺めている。狙撃手として言わせてもらうなら、そこに誰が居ようが関係無い話なのだけれど。
その感覚の違いは同時に、狙撃手とそうではない人間の違いなのだろう。
ボリスにしてみれば、そんな事で乱れるような腕前ならすぐにでも辞めちまえ、と言いたい。それは完全に、その人物には向いていないからだ。

気が散ると悪い、という彼の気遣いはありがたいけれど。それならばもっと、違う所に気を遣え、と思うのも事実。
訓練を終えた自分に、彼は「目線がやらしい」などとのたまうのだ。仮にも誰かの命を奪う事を前提としている、狙撃の訓練を目にして、である。
寸前まで狙撃に集中し、神経を尖らせていた自分がその言葉によって一瞬で引き戻される、その居たたまれなさといったら。

「ふざけんな」と怒鳴りつければ。
彼は「冗談、冗談」と笑って。
今度は、優しいのに真剣な目で言うのだ。


「ボリスのその目、俺すごい好き」


そっちの言葉の方が心臓に悪い、なんて。

彼には絶対に、口が裂けても、例え死んでも、言わない。






教本を手にしたままそんな事を考えていたボリスは、はっとして力一杯それを閉じた。本当は、風力の計算について確認したい事があったのだ。その為に教本を手にした。
けれど。
本棚の不自然に空いたスペースに何が入っていたのか、思いだした。

「貸したんだっけ、」

ボリスはそう、ひとりごちた。

冬道安全運転技能向上訓練、なるものがある。

雪の多い地方では、緊急車両を運転するしないに関わらず、全員がその講習を受けなければならない。ボリスは必要に駆られない限り運転などする機会が無いけれど、それでもミリツィアに所属している人間は必ず免許を持っているわけだから、免れる事は出来ないのだ。
しかしコプチェフについては、パトランプを点灯し、緊急車両として走行する事がほとんどであり、それに該当する場合はただの講習では済まされない。

彼が、「今年は1級検定を取らなきゃいけない」とぼやいていたのを思い出す。

それなら教本ぐらいちゃんととっておけよ、と言いたい所だが、変な所でずぼらな彼は、どうもそれを捨ててしまったようだった。これがまた、買うと結構値が張る。そんなわけで、彼はこの本棚からついこの間「ちょっと貸しといて」と持って行ったのだ。

俺、明日講習受ける日じゃなかったかな、とボリスは思った。思い出して良かった、と思う反面。そういうのは普通、借りた奴が気を利かせて返しに来るものじゃないのか、と思いつつ。

パトロールが無かったせいで、今日はろくに声を聞けなかった彼の部屋へ。

行く口実になる、と思った。

そんな自分を殴りたくなったのは、今日が初めてではない。








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