人体民警 書庫(短編)
□「愛してない」
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休日の昼過ぎ。
いつものようにボリスの部屋へおしかけた自分は、しばらくの間面白くもないテレビを、ソファに寝そべって眺めていた。
ボリスに話しかけた所「しばらく黙ってろ」と言われたからだ。
途中でテレビにも飽きて、ソファの上からボリスを眺める。
彼は床の上に布を広げ、その上に乗せたドラグノフの手入れに完全集中。こちらをかまってくれる様子が無い。まぁそれはいつもの事だし、今更どうのこうの言う事でもないのだけれど。
実際、目の前にボリスが居るという事だけで、もう充分幸福だったり。
いや、もちろん満たされない部分は、あるにしても。
「…何お前、ヒマなの」
ボリスがドラグノフから視線を動かさずにそう言った。話しかけるなと言ったくせに、発信源が自分ならいいのか、と思いつつも「ヒマ」と答える。
「…ふうん、」
ボリスは気の無い返事をする。
彼はその手で、細く長い銃身を持ち、中央部に大きな穴が空いたスケルトン・ストック型の銃床を丁寧に磨いた。時折角度を変えて、汚れが無いかを丹念に確かめている。
普段は銃床上部に、スコープを使用した際の照準を容易にするため、チークピースがついている。最も今は手入れ中なので装着していないが。
彼がそこに頬を当て、狙いを定める瞬間。
その表情は。
いつ見ても、背筋が震える程に、鋭い。
その鋭い眼差しが、何か違う物と入れ替わってしまうのはまぁ、自分が欲求不満なせいなんだろう。
「お前さ、今日の夜もヒマ?」
不意にかけられた言葉に、コプチェフは寝そべっていた体を起こした。彼はその間一度もこちらを見てはいないが、起き上った事は気配で察しているようだった。
「夜?」
「そう」
「ヒマ」
「…じゃ、ちょっと付き合えよ」
付き合えよ、なんて。珍しい事があるもんだなぁ、とコプチェフは思う。
ボリスはあまり、外へ出たがる性格ではない。むしろ面倒がる方だ。今まで付き合ってきた女性とは一体どんなデートをしてきたんだろう、なんて余計な想像まで始まってしまうくらいに。
「いいけど、どこ行くの?」
「酒」
「…酒?」
コプチェフが繰り返して尋ねると、ボリスは顎でテーブルの上をさした。コプチェフは立ち上がって、食卓テーブルの上にあった紙切れを手に取る。
ご丁寧に封筒に入っていたらしい。
白いその封筒の表には、綺麗な文字で「ボリスへ」と書いてあった。ひっくり返すと、同じ筆跡で。差出人の名前。
「…ダッツァ・ギンツブルグ…、…え、ダッツァって、あの?」
ボリスは片眉を上げて、「あの、って何だよ」と言った。
ダッツァ・ギンツブルグ。
脱獄囚キレネンコの狙撃任務に当たり、しかしキレネンコを追っていたマフィアの凶弾に倒れた狙撃手。…の、元相棒。
彼はとうにミリツィアを離れ、ここの所噂話さえ聞いていない。
「何、あの人飲み屋やってんの?」
「…言わなかったか、俺」
「聞いてない」
「あいつ、ここに来た時俺に言ったんだよ、ミリツィア辞めて飲み屋開く、って。まぁ、それがポストに入ってんの見つけるまで、俺も忘れてたけどよ」
何それ、何であの人そんなにボリスにかまってくんだよ、と。半ば子供じみた嫉妬が首をもたげる。コプチェフはそれを悟られないように、封筒に入っていたらしい紙切れを開いた。
手紙だった。
「ボリスへ」から始まる、美しい筆跡。
コプチェフにとってその人物は、ほとんど名前しか知らないようなものだ。
彼がミリツィアを去る日、署長の部屋の前でみかけただけ。ボリスから簡単に話は聞いていたので、それが誰なのかはわかったけれど、その他の事は一切、分からなかった。
彼はこちらの事を知っていたようで、切れ長の目を柔らかく緩め、微かに唇の端に笑みを浮かべた。
だからコプチェフは頭を下げた、とりあえず。
手紙には、ショットバーを開く事になった、という事と、開店する前日はプレオープンの形をとるから混むけれど、その更に前日であれば店そのものをお前の為に開けておくから、ぜひ来て欲しい、という事。
そして、相棒も連れて来い、という事。これは多分、ついでに書いたんだろう。
それらが簡潔に、嫌味なほど美しい筆跡で。
「…なんか、これ、…挑戦状?」
コプチェフが言うと、ボリスは不思議そうにこちらを見た。
「何だって?」
「ボリス、この人と仲いいの、」
「いや。今日会ったとしてもまだ3回目」
「…あのさ、コレ読んだ?」
「多分」
ボリスはまだドラグノフに気をとられているようで、中途半端な返事を寄こす。
コプチェフは苦い顔で、手紙を眺めた。
店そのものをお前の為に開けておく、の部分がやたらと気になる。わざわざ書かなければならないような事だろうか。そもそも、ほとんど接点の無いボリスに何故、彼がそこまで。
「行くの、行かねぇの、」
ボリスはドラグノフを専用のケースに仕舞い、整備の為のコンポーネントを片付け始めていた。別にどっちでもいいけどよ、と続けた彼の言葉に、若干の衝撃を受けながらコプチェフは言った。
「行くよ。こんなん読んで、一人で行かせられないでしょ」
「は?」
不思議そうな顔をするボリスを見て、変な所で無防備なんだよな、とコプチェフはひとりごちた。
彼のその無頓着さを「無防備」なんて言葉で表現する辺り、自分は彼の扱いをどこか間違っているんじゃないか、という冷静な疑問も湧くのだけれど。
普通に考えて、男に対してそういう意味で「無防備」なんて。
おかしい、事くらいは。
自分だってよく分かっている。
午後7時にボリスの部屋を出て、メトロに乗って一駅。
賑やかな町並みは人でごったがえしていた。週末という事もあってか、きっといつもより人の出が多いのだろう。
12月に入ると、イルミネーションで輝いている路地や、派手な飾り付けをされた店が目立つようになる。みんな年末へ向けて、だんだんとテンションが上がる時期なのだ。
ボリスと並んで歩きながら、同封されていた地図を眺めつつ、店を探す。
彼はというと、先ほどからこの人ごみに辟易しているようで、盛大な溜息をついていた。
「あ、ボリス、あれじゃない?」
レンガが詰め込まれたような壁に、シルバーで出来たライオンの頭が付いている、木製の扉。
そこにはライオンと同じシルバーで出来たプレートがついており、「Дywa」と書いてあった。
「店の名前が、「ドゥシャー」?」
コプチェフは思わずそう呟いたが、ボリスは全く意に返さず、木製のとびらを力強く開けた。扉の内側についた鈴が小気味よい音を立てる。
バー特有の薄暗さはあるが、まだカウンターやテーブルが新しい。カウンターの内部には色々なリキュールが並び、カラフルな色合いで目がチカチカした。
そして驚いた事に、店の奥には大きなグランド・ピアノが置いてある。
「ダッツァ、居ねぇのか」
呼び捨てってアリなの、とコプチェフが思った事は言うまでもないだろう。
ボリスの大層不機嫌な声で、カウンターの奥の出入口がカチャリと開いた。
男が顔を出す。ダッツァだ。
「お、マジで来てくれたんだ、」
鋭い眼は、笑うと人懐っこいものに変わる。片側だけ刈り上げた黒い髪はそのままだが、逆側の長い部分を後にひっつめ、ゴムで縛っていた。
「まぁ、ヒマだったんで、」
ボリスがカウンターに座ったので、コプチェフはとりあえず、その隣に座る。
ダッツァの視線がこちらに向けられていたので、コプチェフは彼を見て、「こんちわ」と言った。予想外に、彼が優しい目をしていたので驚く。
そういえば彼は、自分と同じようにドライバーをやっていたんだよなぁ、なんて今更思った。
相棒を失くした彼が、酷い雨の日にラーダの前で立ち尽くしていた姿。
それがふと、脳裏をよぎる。
両手を拳の形にギュっと握って、何時間も、立っていた背中。
「俺の実家ね、ショットバーやってんだわ。そんでまぁ、酒扱ってる知り合い多くてね。たまたまココ引き払うって人が居たもんで、俺が買い取ったわけ」
ダッツァはそう言いながら、音を立ててグラスを磨く。
んで、何でボリスは直接呼ぶくせに俺はついでなわけ?と疑問には思いつつも、そう切り出せるような空気は無い。
彼にしてみれば、きっと失った相棒が狙撃手だっただけに、ボリスの事が気にかかるのだろう。同じ任務に当たったボリスの無事を、確認しに来たくらいだ。
それが例え自己満足であったとしても。
まだ鮮血が溢れ出すような傷口から、目を逸らさなかった彼は。
立派だった、と思う。
「んで、何飲む?」
ダッツァはにっこりと笑って、ボリスに問いかけている。
彼らの顔の距離がやたらと近い事に、当の本人よりコプチェフが焦った。
ボリスは若干後ろに仰け反りながら少しだけ眉根を寄せ、助けを求めるみたいにこちらを向いた。その顔は「コイツこんなキャラだったんだな、」と言っている。
なんだか妙に、それが嬉しい。
「じゃ、先輩のオススメで」
コプチェフが代わりに答えると、彼は声を上げて笑った。
簡単に、好みを聞かれた上で、自分達にはそれぞれ違うカクテルが出てくる。酒に強いか弱いか、それが聞かれなかった辺りは若干、不安を覚える所だ。
ボリスにはスレッジ・ハンマー。
自分には、ホワイト・ルシアン。
グラスに口をつけながら、バカにされてるのか、とコプチェフは思う。
ホワイト・ルシアンはコーヒーリキュールとウォッカを混ぜた上に、生クリームが乗っている。口当たりは優しいし、飲みやすい。嫌いではない。
けれどボリスのスレッジ・ハンマーは明らかに、酒に強い人間じゃなければ飲めないような物だ。ギムレットのウォッカバージョンに氷を加え、ライムジュースを混ぜてシェイクした物。酒の角を丸くしてあるとはいえ、ウォッカの味がモロに鼻を突きぬける。相当アルコールの度数はキツい。
ボリスはこちらをチラリと見やってから、鼻で笑った。
「ま、お前酒弱ぇ方じゃねぇけど、何か…酔うと始末悪ぃし、それぐらいが丁度いいんじゃねぇの」
始末が悪いとはどういう意味だろうか。コプチェフは若干疑問に思いながらも、ボリスの手の中のカクテルを見つめ、思わず問いかける。
「…ボリスそれ、大丈夫?」
「何が」
「だってそれ結構、キツいよ?」
「お前と一緒にすんじゃねぇよ」
ボリスは鼻で笑って、スレッジ・ハンマーを喉に流しこんだ。
スレッジ・ハンマーって名前の意味、分かってる?という質問が喉まで出かかったけれど、何とか飲み込んだ。そういえば、彼が酔っている所なんて見た事が無いのだ。もしかしたらこれから先も、無いかも、とか。
「お前ら、仲いいんだねー、」
グラスを拭きながら、ダッツァが言った。まぁ、一応恋人同士ですから、なんて。口が裂けたって言えないけれど。ボリスはフン、と鼻で笑ってグラスを傾けている。
しばらくの間、最近のミリツィアの事や、大きな事件の事、そんな他愛ない話をした。彼は想像していたようなイヤミな人物ではなく、逆に気さくで良い先輩だった。
ミリツィアを辞めてしまった事が本当に惜しい。もしもまだ所属していたら、きっともっと色々な事を彼から学べただろう。
「先輩、歳いくつ」
「俺?34」
「へぇ、…意外に若いんだ、」
「どういう意味だそりゃ」
「あ、タバコいいすか」
ダッツァは笑いながら灰皿を差し出してきた。コプチェフは自分が段々と上機嫌になっている事に気づく。酒の力も手伝って、なんだか。ひとりで楽しくなってきた。
トロイカに火をつけて大きく吸い込み、鼻から息を吐く。
突然背後に人の気配がしてコプチェフが振り向くと、部屋の最奥にあるグランド・ピアノに誰かが座っていた。
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