人体民警 書庫(短編)
□ヴィシニュフカ
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思い返してみればここ2、3年、恋愛が上手くいかない傾向にあった。
とは言っても、彼女が居なかったわけではない。不特定多数と、という意味でもない。きちんと手順を踏んでいくのは楽しかったし、適当に付き合った事による別れではないのだ。
…いかんせんどの女性も、長続きしなかっただけの話で。
初期にありがちな過剰な愛情表現に慣れると、彼女達はほんの少し連絡が途切れただけで「どうして」「いつもなら」「何度も電話したのよ」と捲し立ててくる。もちろん彼女達のそんな所も、可愛いと思っていた。
思っては、いたのだけれども。
どうしても外せない用事、ことに仕事に関しては、どうにもならない事だってある。それは誰のせいでもないし、言うなれば不可抗力というヤツなのだ。
何度も宥めすかして、何度も「もうしないから」と謝って、甘やかして、「綺麗だね」と褒めて、欲しがっている物を買ってあげて、髪を撫でて「好きだよ」と囁いて。
けれど、かつてお付き合いした彼女達と偶然町で出会ったら、彼女達は笑顔でこう言うだろう。
コプチェフくんて、本当に私の事好きだった?
ああ、彼女達には俺の努力なんて微塵も伝わっていなかったのだなぁ、と思う反面、自分はもしかしたら、彼女達を「可愛がる」事に重点を置きすぎて、それぞれの持っていた何か大切な事に、気付いてあげられなかったのかもしれないなぁ、とも思ったりするのだ。
彼女達に何度も囁いたはずの、「好き」という言葉が。
こんなにも重いものだったろうか、と。今は思う。
「…何ジロジロ見てやがんだテメェは」
それ以上ないくらいに不機嫌な顔で、彼は呟いた。
突然部屋へ押し掛ける、という手を自分はよく使う。事前に言うと、あからさまに嫌な顔をされるからだ。
いつも思うのだが、自分達は想いを伝えあって、世で言う「両想い」になったはずなのに。何故こうも甘さのない生活なのだろうか。
毎日ではないけれど、かなりの頻度で彼とはパトロールに出かける。
出ない日でも署内には居るわけで、顔も合わせる。帰る場所が違うとしても、よほど忙しくない限り言葉を交わす機会がある。
けれど。
それだけでは満たされないものが、やはりあるわけで。
例えば抱き締めたいと思ったり。
キスをしたいと、思ったり。
その先はまぁ、まだ未知の世界だけれど。
少なくとも、触れたいと思う事は自然なはずなのに。何ジロジロ見てやがんだ、なんて。普通好きな相手に言う言葉だろうか?
まぁ、男相手に好きだの何だのほざいている時点で、それはもう普通ではないのだろうけれど。
コプチェフはめげずに、笑顔で言った。
「ケーキ、食べない?」
彼の部屋へケーキを持って押し掛けた時、当のボリスはちょうど風呂から上がった所だった。午後9時頃の話である。
まだ湯気が肉眼で確認できるのではないか、と思えるくらいの、湿り気を帯びた彼の顔。ついでに言うと、上半身は裸だった。下は紺色のスウェットで、首にタオルをかけている。右手にはWiśniówkaの瓶。チェリーウォッカだ。
最近の彼のお気に入りらしいそれは、甘い口当たりとは逆に40度もある濃いウォッカ。
酒は強い方だと自負しているが、ボリスとは飲み比べで勝てる気がしない。
勝手に上がり込んだコプチェフを見て、「お前なぁ、」と呆れた顔はしたものの、特別追い返したりはしなかった。溜息をついて、瓶をあおっている。
その喉仏がゴクリと上下する様を、どんな目で見られているかなんて。
きっとボリスは考えた事もないのだろう。
相変わらず殺風景な部屋で、必要最低限の物しか無い。脱ぎ散らかした服が散乱している以外は、意外にも綺麗にしている方だと思う。
「この時間にケーキかよ…普通、買うなら酒の肴だろうが」
タオルで髪をゴシゴシと拭いていたボリスは、それをキッチンの手前に置かれたイスの背に投げつけて、「おい、何か飲むか」と聞いてきた。
タオルがかけられたイスの、テーブルを挟んで向かい側に置かれたもう一つのイスに、コプチェフは腰かけながらボリスを見る。
彼はこちらに背を向けたままだったので、姿勢良くすっと伸びた背筋が目に入った。
均等のとれた体。
服を着ているとわからないけれど、意外に細いんだな、なんて思う。
どこをどう見てもそれは成人した男の背中である。何故それを見て、自分が妙な気持ちになるのかなんて。もう理解しているはずなのに。
返事をしないコプチェフを不審に思ったのか、彼は振り返る。
慌てて「え、何か言った?」と聞き返すと、ボリスは片眉だけ持ち上げてから「何でもねぇ」と答えた。
しばらくして彼がコプチェフに淹れたのは、マグカップに入ったロシアンティーだった。テーブルの上にトン、と置かれるカップ。
覗き込むと、底に苺のヴァレーニエが沈んでいた。
「…意外」
「何が」
「ヴァレーニエ」
ボリスがテーブルの上に自分のチェリーウォッカを置き、不思議そうな顔をしている。やがて意味を理解したのか、椅子に腰かけながら言った。
「特別好きってわけでもねぇけど。まぁ、常備品?」
「ふーん。子供の頃から、みたいな?」
「そんな感じ。お袋が作ってた、いつも。無くなると」
「へぇ〜……え?」
コプチェフは更に意外な事に気が付いた。
母親が作っていたという事は、もしかして。
もしかしなくても。
「…これまさか、ボリスが作ったとか言わないよね」
「悪ぃか」
思いきり不機嫌な顔をして、睨みつけてくるボリス。
「え、…えー?!作ったの?ボリスが?!ほんとに?!」
「だったら何なんだよ、うるせぇなぁ」
ボリスはフンと鼻を鳴らした。
コプチェフが買ってきたケーキの箱の隙間に指を突っ込んで、中を覗いている。
料理なんてほとんどしないボリスが。キッチンに立っている姿を想像する事さえできないボリスが。
ヴァレーニエを、作った?
作ったと言ったって、果物に砂糖をかけて煮るだけだけれど。だからこそ、ボリスも作る気になるのだろうけれど。なんだかそんな甘ったるい物を、彼が作っている光景なんて。
「…悪いけど、想像できない」
「すんなっつの」
コプチェフはキッチンに立っている彼を、何とか想像してみようとした。
けれどそこに浮かんできたのは、さっき見た彼の、すっと伸びた背中だった。
彼の性格を現しているような、真っ直ぐで濁りの無い背中。触れる者を傷つけてしまうんじゃないかと思うくらいに鋭く、けれどそれ故に存在し得る、強さ。
ボリスはおもむろに立ち上がると、散乱した衣服をひっかき回して薄手のシャツを引っ張り出し、着込んでいる。
一瞬、自分が考えていた事がバレたのではないか、と下らない事を思った。目を逸らした方が自分のためだ、と思いながらも、目は吸い寄せられるように、彼を追う。
頭からシャツをかぶる瞬間、うっすらと浮いた肋骨が何だか。
卑猥だ、と思った。
「ケーキ、食うだろ」
イスの所まで戻ってきたボリスがそう言って、思いついたように戸棚に手を伸ばす。さっきは「普通酒の肴だろ」なんて文句を言っていたくせに。2枚の皿と、2本のフォークを取り出す彼はどこか、楽しげ。
2人分の、食器。
それがテーブルに並べられるのを見ながらコプチェフは、これが日常になったらいい、と思った。これが当たり前に繰り返されるような毎日が、来る事を願う事実。
今まで好きになった相手には、抱かなかった感情。
思わず、笑ってしまった。ボリスが怪訝そうな顔をする。
「…何だよ」
「いや、なんか、…ごめん」
意味が分からなくてムっとするボリスを見ると、尚更笑えた。でもあまり笑うと彼は本気で機嫌を悪くするのでほどほどにしておく。
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