人体民警 書庫(短編)
□ヴィシニュフカ
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皿の上に乗った、ショートケーキ。
意外に器用な手つきでフォークを扱う彼の手。その手がいつもは銃を持ち、時には人の命を奪う事がある。
口に出しては言わないが、慢性的な彼の不眠にそれが関係している事ぐらい、きっと本人も分かっているのだろう。相手がどんなに最低な人間でも、命の重みに差は無いのだから。
ボリスがチェリーウォッカの瓶に手をやる。グイ、と大きくあおったのを何の気なしに見て、ちょっとだけイタズラしてやろう、と思った。
「ボリス」
呼びかけに、彼は目線だけをこちらに向けてきた。手はフォークを動かしているし、一口の量が多かったせいか、もぐもぐと大げさに動いている顎。
色気も何もあったものじゃない。むしろ男らしい食べ方だ。
「クリームついてるよ」
左の頬を指さすと、ボリスは「ん?」という表情で一瞬動きを止め、手の甲でゴシゴシと顔を拭いた。
もちろん、クリームなんてどこにもついていない。付いてもいないクリームを、ついていると言われるその状況の意味を考えるだけの想像力が、彼には無いのだ。
だから言葉を鵜呑みにする。
普段はとっつきにくい、どちらかと言うと他人を拒んでいるようにも見える彼が。
そんなふうに他人の言葉を真に受けて信じ込む所なんかは、妙に無防備で。
俺の性格を考えたら、やりそうなイタズラだとか。思わないのかなぁ、なんて。
「もっと上。あーもうチョイ左」
「あぁ?どこだよ?」
「ほら、ちょっと顔こっちに、」
素直に顔をこちらに近づけたボリスが、イタズラに気づく前に。
わざと、唇にはしなかった。
左の頬に、ちゅっ、と音を立ててキスをする。
殴られるのも嫌なので、さっと顔を離すと。ボリスは口をへの字に曲げて、何とも説明しがたい顔をしていた。
日頃イタイ言葉を吐かれているのだから、これくらいのイタズラは許されるはず。いっその事、許させる。何となく、そこだけは自信があった。
飛んでくる罵声にどんな返事を返そうか、そう考えていたのだけれど。ボリスは口をずっとへの字に曲げたまま動かなかった。猛烈に怒っているという顔でもない。不機嫌というよりは、何だかヘソを曲げた子供みたいな顔。
これは新しいパターンだなぁ、と思いながらコプチェフはケーキを口に運んだ。イタズラが大成功だった自分としては、あとは彼をからかうだけなのだけれど。
その彼がおかしな顔をしたまま動かないので、とりあえず黙ってケーキを食べた。
ボリスの淹れたロシアンティーに口をつける。
甘いイチゴの香り。
彼の手作りなのだ、という事実が付随するだけで、それはこの世で一番、美味しいと思えるものになる。
「このヴァレーニエさぁ、………ボリス?」
不意に思いついた言葉を発したけれど、ボリスはまだ変な顔をしている。
全開の笑顔なんてほとんど見た事はないけれど、決して嬉しい表情ではない彼のその顔の意味が、コプチェフにはわからなかった。
もう一度何か言おうかと思った所で、ボリスがフォークを動かした。大きく口を開けて、ケーキをねじ込む。その表情からはまだ、おかしな表情は消えていないけれど。幾分諦めたような、そんな様子だった。
「…何、怒った?」
コプチェフが問うと、ボリスは「別に、」と言った。最後のひと欠片を口に放り込んで、チェリーウォッカで流し込むと皿を持って立ち上がる。
シンクに皿を置いて、再び立ったままチェリーウォッカをあおった。
「ちょ、ボリス、それ40度くらいあんだよ?そんな一気に」
言っているそばから、ボリスがもう一度、瓶に口をつけた。
「やめなって、」
立ち上がってボリスの腕を掴む。ちょっと驚いたように、彼はこちらを見た。顔色も変っていないし、酔っている様子もないけれど。
ボリスの手の中のチェリーウォッカが、たぷん、と間の抜けた音を出す。
それに気を取られている間に、突然胸倉を掴まれた。驚いているヒマもなく、目の前にボリスの顔が寄せられる。
間近で見る彼の、グレーの目が。
ぼんやりと滲んでいて。
綺麗だな、と思った瞬間に。
押し付けられた、唇。
素直に、嬉しいという気持ちはあったのだけれど。ボリスのその、唐突な行動に少しだけ面食らったのも事実だ。
コプチェフは、何だか溶けそうに熱い彼の唇を貪りながら、頭の片隅で理解した。
さっきの、ボリスの表情の訳を。
イタズラを、しかけた事自体を怒っているわけではなかったのだ。
キスをしたのが
…頬だったから
長い長いキスの後。
体を密着させたまま、愛おしい体温を抱き込む。ボリスの髪に指を絡ませていると、おもむろに彼は言った。
「…ヴァレーニエがどうしたって?」
「ん?」
「何か言ってたろ」
「…ああ、」
コプチェフは、自分よりも5,6センチ身長の低い彼の額に、優しくキスをした。ちょっとだけ迷惑そうな顔で見上げてくるその目は、どう考えたって「可愛らしい」とは言えない、鋭い目だ。
こればっかりは説明がつかない。男相手に、可愛いなんて。絶対に有り得ない。もう何度も思った事だ。可愛いわけがないし、愛しいわけがないのだ。
思うわけがないのに。
マジで、
ヤバいくらい可愛いんですけど
何なの、コイツ
と。
コプチェフは思った。
「苺のヴァレーニエ、俺にも作ってよ」
コプチェフの言葉に、ボリスはフン、と鼻で笑った。ふざけんな、なんて言われる想像をしていたのだけれど。
思っていた言葉よりは、もっと柔らかな返答だった。
「…仕方ねぇな」
ちょっとだけ得意げにそう言う彼の唇を、舐める。
彼は甘い吐息をもらして、誘うように赤い舌を出した。
だからそれを、優しく噛む。
甘い、その舌。
微かに、チェリーの香り。
2009.11.11
ヴィシニュフカ、の「シ」がロシア語で表示されませんでしたので、題名がカタカナになってしまいました(笑)